消える。
消えてゆく
消えたくない。
消えないで。
お願い、消えないで。
嫌だ、…独りで逝くなんて。
そんなの、絶対嫌だ。
*
もし、全人類か一人かの命を選べと言われたなら…。
「兄さんはどっちを選ぶ?」
ぴくりと、石膏像のような完璧な造形が反応した。
ゆっくりと、こちらを向いた赤い瞳。
世界中どこをどう探したって、この赤以上に鮮やかで美しい赤色はないだろう。
僕はそれを生まれる前から知っていた。
「例えばさ、この世界の全人類の命と僕の命…どちらか片方しか救えないんだ。ねぇ、どうする?」
うっすらと微笑んで小首をかしげる。
感情のかの字さえない彼の表情は、無言でこちらを見つめていた。
その綺麗な水晶体に、彼とそっくり一緒の顔が映っている。
当たり前だ、僕たちは双子だもの。
彼が僕より1分早くこの世界に産まれ落ち、僕が彼より1分遅く産まれ落ちた。
兄か弟か、なんて要はそれだけのこと。
二人を仕分ける記号でしかない。
1分差の寿命の平行線で、僕らは生き続けているだけだ。
「全人類って、何十億かだよ。めちゃくちゃ多い、いやー多すぎて想像できないね」
アハハ。
乾いた笑い声が、高い天井に響いた。
汚いボロ建築の孤児院にしては、まだマシな場所。
白い、白い塗り壁に囲まれた小さな部屋。家具はなく、僕らの背丈の倍くらいありそうな大きな出窓がひとつあるだけ。
僕らはその出窓に座っていた。
お揃いの白い服から覗く、兄さんの手。そこにはやっぱり白い包帯がぐるぐる巻きにされていた。
窓の外は一面の雪だった。
部屋の中も白ければ、窓の外も白い。
世界は白一色で、僕らの髪だけが赤に染まっていた。
「何十億対一。うーん、ものすごい比率だよ、どうする?兄さん」
僕の声だけが、場違いに反響する。
けれど、同じ血を分けた彼はふっと視線を逸らしてしまった。
窓の外、眩しいくらいの外光に少しだけ煩わしそうに目を細める。
ふと、数十時間前の光景が甦った。
赤い赤い、血溜まりの中心に立ちすくむ兄さん。
赤い髪、赤い瞳、そして赤い血液。
それはまるで、彼の為に用意された舞台みたいだった。
ある種の感激に似た想い。その想いは今でも、鮮明に思い出せる。
兄さんと僕の間には、僕らより年上の少年が一人うずくまっていた。
彼は腰を抜かしぶるぶると震えて、酷く可哀想な状態だった。
傍らでは騒ぎを聞きつけたシスター達があまりの光景に息を呑み、ただの背景と化していた。
嗚呼、綺麗だなと思った。
同じ顔をしているけれど、兄さんは僕より酷く赤が似合う。
赤という色素が彼の為に存在し、彼という存在が赤の為に生きている。
まさに、そんな両義性をもった存在。
僕は懸命に顔が緩んでしまいそうになるのをこらえていた。
今笑うと事態がもっと深刻になるだろうことは、これまでの経験からよくわかっていたから。
僕はもちろん正直に話すつもりでいたし。僕らの間にうずくまる少年が、兄さんに何をしようとしたのか。
そして、兄さんがどう反応して、こうなってしまったのか。
何の嘘偽りもなく話すつもりだった。
僕はずっと見てたから。
きっと、いい証言者になるだろうって。
けれど、シスター達は長年凝り固まった短絡的な思考パターンで、僕を証言者ではなく当事者とみなしてしまったらしい。
血まみれの兄さんを手当てし、話をすることもなく、兄弟揃えてこの白い部屋にぶち込んでしまった。
冷たい硬度を保ったドアはぴくりともしないだろうことはよく知っている。ガチャンガチャンと響いた南京錠の音は一度聞いたら忘れない。
世界から隔離する音。
幾度となく聴き続けてきた音。
そしてもう何十時間も僕らは世界から孤立していた。
「ねぇ、兄さん。どっちか選んでよ。全人類か、僕か」
ねぇ。
窓の向こうへと固定された視界に映るように、わざと彼の目の前に顔を持って行った。
彼の焦点が強引に僕に合わされる。
彼の薄桃色の唇が動いた。
「おまえ」
三文字。
独特な響きをもった、声で。
ぞくぞくする。今、多分脊髄が痙攣した。
「僕を選んでくれるの?…なんだ、普通じゃん兄さん」
すっと、顔を引っ込めた。
体育座りからあぐらへと足を組み替えた。素足に直接の外気は、血行に悪い。
「まぁ、全人類よりかはマシだけど」
当たり前だ。
ちらりとこちらを見やった兄さんの瞳がそう言っていた。
僕はくすくすと笑う。
「僕だったらねぇ、全人類か兄さんか、……聴きたい?」
彼はひしとこちらを見つめていた。
僕はたっぷり間をとってわざわざ勿体ぶった。
もちろん、彼がじれる、なんてことはないけど。
でも、何事にも仕様ってのは大事なもんだ。
「あのね、僕だったら……」
全人類の命か、兄さんの命。
どっちかだけしか救えないとしたら…もちろん、選ぶのは。
「全人類の命!」
拍手っ!続けてそう言ったけど、まさか彼がそんなことするわけない。
彼は無感動な視線で応えていた。
あっそう。吹き出しにはそう書ける。
「全人類の命救ったら、僕は英雄だね。世界の英雄」
ニッコリと、これ以上ないくらいの笑顔でそう言った。
でも、と僕は続ける。
「兄さんがいない世界なんて、存在する意味ナシ」
だから、
「僕もすぐに後を追うよ。1分後。ちゃんと1分後に死ぬよ」
そしたら兄さんが生きた時間と僕が生きた時間は一緒だよ。
「だから、安心して」
すう、と右掌を目線の高さに掲げた。
すると彼も同じようにして右掌を僕のにくっつけた。
同じ体温。
さあ?実際は違うかもしれないけれど。
「僕らがいないところで、せいぜい地球は回っていればいいさ。いつか太陽が爆発して太陽系が消滅するまで、人間は醜く生きてればいい」
もしかしたら世界を救った双子って、ずっと英雄として語り継がれるかもね。
そっと指を絡ませた。
ぴったりと合わさるそれに、添うように。
僕は、兄さんが死んでから1分後に自分は死ぬだろうな、と。
ずっと、そんな風に思っていた。
何もかもが同じであることは、現実的には不可能なことだ。
人は体細胞分裂をして別個体を造るわけじゃないから。
けれど、不可能なことほど求めるのが人間の性ってヤツだ。
自分とは違う何かと同じ、ひとつになりたい。
そういう欲求は、誰もが持っている脳みその奥深くに。
それは多分本能。生き物としての本能。
だから僕は兄さんとひとつになりたい。
同じ存在でいたい。
兄さんが死ぬ最期の瞬間。
兄さんが生きた同じ分だけ生きたい。
だから、物理的な理由で生じてしまった1分という僅かな誤差を、死という方法で埋めてしまいたい。
そう、思ってた。
まるで、それが自然の法則だとでもいうように…。
なのに。
「……兄…さん」
嗚呼、声帯は生きてる。
ゴポゴポと体液が、気道を邪魔している気配はするけど。
「…兄さん…」
左半分だけの視界。
そこに、左半分を血で染めた兄さんの顔が映っていた。
滲んで、鮮明には映らなかったけれど。嗚呼、綺麗だな…と心の底から思った。
兄さんには、やっぱり赤が似合う。
世界一、美しい…。
「…兄さ、ん…僕、死ぬのか…な」
痛みはない。
けれど、身体の感覚もなかった。
生きている五感は視覚と聴覚だけ。聴覚は多分自分の頭蓋の振動を受けているだけだから、ほとんど死んでるのと同じだろう。
嗚呼、左目だけでも生きてて良かった。
兄さんのこんな綺麗な姿を見れて良かった。
「……死ぬ…のか…な」
兄さんの腕の中、何も感じないけれど、きっと温かい。
ねぇ、兄さんはまだ死なないの?
なんか僕もう死にそうなんだけど…。
どうして…?
先に死んでくれないと、僕死ねないよ。
「……死ぬ…な」
ぽつりと。
ほとんど吐息のような微かな声。
ねぇ、今死ぬなって言った?兄さんが、僕に死ぬなって?
嗚呼、可笑しい…。
僕はこんなにもひねくれているのに。
どうして兄さんはそんなに真っ直ぐなんだろう。
ねぇ、どうして。
どうして、兄さんはそんなに優しいことを言ってくれるの?
愛とかそういうのよく分からないけど。
兄さんは僕を愛してくれてるから?
「…死ぬ…な」
嗚呼、泣けてくる。
そんなこと言ったって、無駄だってわからないの?
そんなこと言ったって、どうせ死んじゃうんだよ。どうしようもない。
生き返るわけないじゃないか。
死ぬんだよ、もう。
だから、早く兄さんも死んでよ。
お願い…もう、間に合わない…。
「1…分…」
動かない唇の隙間から、それが漏れた。
視覚が霞んでゆく。
兄さんの瞳が滲んでいるのは、自分が泣いているからなのか、彼が泣いているからなのか…。
嗚呼、もし全人類か君かの命を選べと言われたなら。
僕は迷わず全人類を救いたい。
そして全人類の命を救った後、君と一緒に消えてしまおう。
こんな救われない世の中から。
消える。
消えてゆく。
消えたくない。
消えないで。
お願い、消えないで。
お願い…。
その瞬間ブツリと、世界は真っ黒になった。
1分間の平行線。