「イタい」




低く、押し殺された声。
決して喚いているわけでも叫んでいるわけでもなく、それはひどく冷静な響きを持っていた。

抵抗もほどほどに、彼は至極わずらわしそうな視線をよこしてきた。
眉間に寄せられたシワは、確かに不愉快そうだったが、別段そこに焦りはない。



「…ボリス、恐くないの?」
「こわい?お前を?はっ…なんで?」



アレ…?
おかしい、予想と違う…。

こういうことに疎そうな彼なら絶対パニックになると思っていたのに。
ボリスは、いかにも意味不明という風に顔をしかめた。



「ねぇボリス、…今どんな状況かわかってないの?」



ボリスは不意にきょとんとした。
どんな状況…?リピートした言葉がフェードアウトしてゆく。彼の眼球はゆっくりと、床に押さえつけられている己の腕を見やった。
カーペットが敷かれているとはいえ床の上。それも、容赦なく押し倒され上に乗られている状態。彼は、自分の置かれている状況を再認識したはずだ。しかし、



「お前が俺の上に乗っかってて、イタい」



彼はぶっきらぼうにそう言っただけだった。どうやら彼は事態の深刻さをわかっていないらしい…。コプチェフは、思わずため息をつきかける。

なんで、こんなところで天然なわけ?
とりあえず、喉まででかかった疑問はなんとか飲み込んだ。

二人だけの部屋の中は、付けっぱなしのテレビの音以外静まり返っている。
長いCM中だったドラマは、ようやく続きを再開したようで、かん高いヒロインの声がなにやら叫んでいた。



「何がしたいんだか知らねぇケド、…お前早くどけよ」



ボリスは相変わらずくそめんどくさそうな声でそう言った。



「いや、ハイわかりました…ってどくわけないよね?どくわけないよな」
「はぁ?お前なに言ってんの」
「ボリス」
「?」
「あのね、いくらなんでも今、……男に押し倒されてんだよ?」
「…それが?」
「それが…って、もう…」



ヤバいこれは相当筋金入りだ。
こういうのに疎い、って疎すぎる。これじゃあ、意を決して行動に踏み切った自分がバカみたいじゃないか…、かなり手痛い反撃を食らうと覚悟してたのにくそ。

こうなったら…。



「ちょっと、大人しくしてて…」



それだけ言うと、コプチェフは疑問符を浮かべているボリスを無視してその首筋に舌を落とした。



「はっ…わ…!なにすんだ…てめっ」
「大人しくしてって言ったじゃん」
「はいっ?あぅっ…くすぐったい!やめろ、バカっ…」



本当にくすぐったいらしいボリスは可愛い声を上げながら、コプチェフの舌から逃れようと身をよじった。
ボリスの首の皮膚は思った以上に柔らかく、髪からは柑橘系のシャンプーの匂いがした。このまま溺れそうになる気配を感じながら、片手をシャツの隙間から忍び込ませると瞬間、びくんとボリスの体が跳ねた。



「…ちょ、コプ…やめろって…何…ふざけて…」
「ふざけてないよ、俺は真剣」



唇が触れるか触れないかの距離で、そっと囁いた。
意外に長い睫毛。若干つり目なせいで目つきが悪く見えるその瞳も、今は驚きに見開かれている。
鮮やかな黒曜石をじっと見つめると、彼はそこで初めて動揺の色を見せた。



「し…真剣って…なにが…」
「…言っちゃっていいの…?」
「……」



ゴクリと、ボリスが喉が唾を嚥下する。
分かりやすいったらない。出鼻を挫かれた分、少し焦らすのもきっと悪くないだろう…けれど、こんな無防備な彼を前にして、この余裕がいつまで続くかなんていう自信はなかった。



「俺、ボリスを抱きたい」



瞬間、ぽかんと彼が口を開けたまんま硬直した。あんまりにも色気のない顔。思わず噴きそうになった。
ちょっと、雰囲気考えろって。



「ボリス、ちょ、…くっ、はは」
「な、な、てめぇ、やっぱおちょくって…!!」
「ご、ごめんごめん。あんまりにもマヌケな顔するから」
「マヌケ!?…てめっ、ふざけんじゃねぇ!どけっ!今すぐ、どけ!!」



ボリスは赤くなったと思ったら、途端じたばたと暴れだした。
あー、この流れヤバい。と思ったがもう時すでに遅し。彼は会話の内容なんかすっ飛ばして、笑われたことに怒り狂っている。



「どけクソっ!ぶっ殺してやる!」
「もー、すぐそういうこと言う」
「うるせぇっ!!」



悪態をつきまくる、けれど両腕は拘束されマウントを取られている為、それ以上何もできない…そんな彼を見つめているとふと、思い至った。
そうだ。
ウルサいものは、塞げばいい。



「どけっつってんのが聞こえねぇのかクソや…んンっ!!」



突然ブツリと途切れた言葉。
彼の瞳は驚愕に見開かれ、身体は瞬間凍結した。
いつもいつも毒を吐いては気紛れに惑わせる、罪な唇。それは、思った通りに柔らかかった。つるりと下唇を撫で、遠慮なく半開きだった隙間から舌を潜り込ませる。



「んふっ…んンっ!」



途端、早くもフリーズが溶けたらしい彼が抗議の吐息を漏らした。しかし、そんなものを受け入れるわけがない。
戸惑っていた彼の舌に己のを絡ませると、案の定彼はびくつき、うぶな反応を見せてくれた。思ったよりも高い口内の熱に、自分の息も上がっている気がする。滅茶苦茶興奮する。



「コ…プっ…!んっ…」



合間を縫って吐き出される熱い呼気。
きれいに並んだ歯列をなぞって、上顎の奥を掠めれば、もぞりと彼が身じろいだ。
いつの間にか、彼の手首からは力が抜けている。ならばと、それを解放して、代わりに彼の綺麗な輪郭をつかんで上向かせた。

唾液が混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。熱い。頬に熱が籠もる。



「くっ、はぁっ…はぁっ…おま…!」



理性がぶっ飛びそうになる寸前で、ようやく歯止めが利いた。
顔上げると自分も若干息が急いていて、どれだけ彼に溺れていたのかが分かる。
多分、味覚がおかしくなったんだと思う…無茶苦茶甘かった。



「…っ、おま…え…意味わかんねぇ…」



はぁはぁとボリスは胸を上下させながらそう言った。真っ赤になった頬を片手で隠している。
その涙で潤んだ瞳が猛烈にエロかった。一体彼は、どれだけ誘惑してくれるつもりなんだろう。



「これで、わかった?」



意図せず無意識に口許は緩んでいた。
もちろん、ボリスが思いっ切り顔をしかめるのも予想の範疇。



「…わかんねぇよ。…わかりたくもねぇし…」
「ふーん、そういうこと言うんだ」



だから、なんでそういうことを無防備に言っちゃうかなぁ、とコプチェフは思わずため息をついた。
相変わらずつけっぱなしのテレビドラマは、いつの間にかエンディングを迎えている。

責任転嫁はよくないとは思うけれど。
こればっかりは、自分のせいだけじゃないと思う。



「それじゃ、分かるまで思い知らせてあげましょうか」
「え?はっ、なんでそうなる…!!」



慌てて身を起こそうとした身体を、床に押し付け直す。じたばたと暴れた邪魔くさい手も、二つとも簡単にひっつかんでしまった。
これで、最初に元通り。
違うことといえば、ボリスに余裕がなくなっていることぐらいだ。



「じゃあ今度は最後までね」
「…え、ちょ…待てバカ!やめろ!やめろ!!」



そう、すべては無防備すぎる彼が悪い。




「自業自得だって」












All's fair in love and war















人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -