末好ければ概善し



(っひ、)

通勤・通学ラッシュの朝、今日は運良く満員電車の扉に近いところを陣取れた。
人がすし詰めになった車内の中央あたりに位置してしまったときは大変だ。私はそう大柄な方でもないし、もみくちゃにされて足が床につかない時もままある。苦しいし暑いし、人に酔って気持ち悪くなる。

今日は片側が扉だから捕まるところもあるし、押されても踏ん張りがきく。
ラッキーだったなーと長い通学時間の暇を潰すべく、鞄から携帯を取り出そうとした矢先。扉とは反対側に向けているお尻に、何か触れた感じがした。いつものようにぎゅうと押されたような感じではなく、軽いタッチだったものだからついくすぐったさに肩が跳ねた。
びっくりしたな…と思ったのも束の間、今度はさわさわとした感触がお尻の上を往復する。

(…あれ?)
これは…いやまさか。

違うよな?まさかな?と若干混乱しているとスっと(恐らく)手が離れていき、なーんだやっぱり違う、とほっと息をついた。次の瞬間、背中にぴったりと人がくっついてきて、さっき尻を触っていたのだろう手がお腹に廻された。
ススス、とお腹から手が下げられ、剥き出しの内腿を撫でられる。

(痴漢、だ)

理解し、認識した瞬間、すぅ、と音がしたかと錯覚するほど、はっきりと血の気の引くのがわかった。
同時に全身の毛孔が開き、嫌な汗が噴き出す。気持ち悪い。

抵抗したり、助けを求めれば何か変わるのだろうけれど…あまりのことに全身が震え、筋肉が硬直してしまったように身動きひとつ取れない。
助けを求めようにも、喉がつっかえたように詰まって声を出すこともままならない。

高校に入学して早数ヶ月、満員電車に揺られることは数あれど、痴漢に遭ったのは初めてのことだ。まさか自分がそのターゲットになろうとは、思いもしていなかった。

だから実際された側がどんな気持ちかなんて、人の話を聞いてもよくわからなかった。
こんなに気持ち悪くて嫌なものなんて、思ってなかった。

どうしようもなくただ固まっていると、耳元に荒い息遣いを感じた。どうやら…髪に顔を埋めて匂いを嗅がれている…?みたいだ。
聞きたくもないのに、スーーー…と思い切り吸い込む音、その後に口からハァハァと小刻みに吐き出される呼吸の荒さが鮮明に鼓膜に届く。

気持ち悪い。嫌だ。怖い。

体を押し付けられて汗すらかくほど暑いはずなのに、底冷えするような感覚に背筋が震える。
ブレザーの中に手が侵入してきたと同時に、お尻に当てられている部分が動き出し、上下に擦られている感じがした。
…この人が何を感じて何を考えているのかわからないし、もう何をされているのかなんて考えたくない。ぐるぐる回る頭はもう「不快」以外の感受を放棄した。

目の前の窓にはニヤニヤと笑うサラリーマン風の中年男性(案外若かった)と、それにぴったりとくっつかれて、目に涙を溜めた自分の顔が映っていた。


電車が止まる。
雄英の最寄駅、降りなきゃ、降りなきゃ。
だけど身体は硬直して、私の横を通り過ぎていく人たちをただ見ていることしかできない。

どうしよう、今降りないと、ぐるぐるぐるぐる回る思考と、「どうしよう」しか浮かばないどうしようもない頭に涙がこぼれそうになったとき、がしっ、と手首を掴まれた。
「っ、」

ホームに引っ張り出された拍子に痴漢から離れられたけれど、少々乱暴な手つきに身体がついて行かず、引っ張られた勢いのままたたらを踏んでその手の主に思い切りぶつかってしまった。
しかしさっきまでの混乱と硬直が嘘のように頭がすっきりとしていて、もしかしたら痴漢の個性だったのかもしれないな、とうっすら考えた。

「…大丈夫か?」
「……あ、あっ!」
そうだ、しがみついたままだ。それに助けてくれたんだからお礼を…ぶつかったままでしがみついていた手をバッと離し、顔を上げる。


……あ、最悪だ。

「障子、くん…」
まさか知り合い、しかもクラスメイトに……よりにもよって、密かに想いを寄せていた人に…あんな現場を見られるとは。

「苗字、大丈夫か?」
ショックで呆ける私に同じ質問を繰り返して、複製腕の目で顔を覗き込んでくる。
「あっだ、だいじょう、ぶ…えっと、ありが、とう……」
さいあく、最悪だ。羞恥と情けなさにまともに彼の顔を見れず(普段からちゃんと見れていないけど、この際それは置いておいて)、目をそらして俯きつつぼそぼそと喋る。

「すまない、本当ならあの男を捕まえるべきだったんだが…おまえを引き剥がすことしか考えられなかった」
「え、えっ…いっいや、いいよ!助かった、本当にありがとう」
ああ、くそ。あんなの、あんなの見られていたなんて。見知らぬ男にいいようにされて、抵抗もできずにただ泣きべそをかいていた、あんな、腑抜けた姿を。

「…大丈夫じゃなさそうだな」
「え…」
私の足元に向けられた彼の視線を追い掛けると、自分の膝がガクガクと震えているのが見えた。嘘だろ。

「あ…」
それだけじゃない、指が真っ白になるほど握り締めた両手、全身は冷や汗でびっしょりだ。きっと顔は真っ青だろうし、ひどい表情をしているに違いない。
体と心がはぐれてしまったようになって、自分がどうなっているのか気づかなかった。結構な極限状態だったらしい。

しかし一度状態を自覚すると、またぞわぞわと足元から気持ち悪さが這い上がってくる。
嫌悪感が背中にべったりとくっついて離れず、触られていた部分に残る感触がうそ寒い。
耳元には、まだあの息遣いが、生温かい温度がこびりついて離れない。気持ち悪い……違和感が嫌で耳を塞ぐと、手は驚くほど冷たかった。

「あは、あはは…だ、だめ、だね、私…」
自分の声が震えていて、あ、これもう泣く…と諦めたら、栓が壊れたようにボロボロと塩水が溢れて足元に落ちていく。ハッキリした性格だと思っていたのに、けっこう女々しい奴だったんだな…こんな自分は知りたくなかった。

障子くんがオロオロとしているのが気配でわかる。ああ、助けてもらって、さらに困らせるなんて。だめだ。これ以上迷惑をかけてはいられない。
「しょ…じく……ごめ、私ちょっと、学校遅れそ…だから、ほっといて、先行ってくれていいよ…」
「……俺が、ここで女子を置いていくような男に見えるのか」
「…はは……見えないけどね…」

でも私にだって、プライドとかあるんだよ。泣いてるところを見られたくはないし、私のせいで障子くんが遅刻したりするのは申し訳ない。そのへんわかってほしいんだけどな。

まあ、本当にクラスメイトより授業の心配するような人だったら、私は彼に惚れてはいないのだけど。

「…じゃあ、お願いしても、いいかな……」
「なんだ?」
「…ひと、いないとこに…連れてって」
忘れそうになるが、ここは通勤時間帯の駅のホームだ。泣いてる女子高生と、見た目だけでも目立つ男子高生は結構注目を集めている。しかも雄英の制服。
泣き顔をじろじろ見られたり、遠巻きに小声で何か話されるのは居心地が悪い。
「わかった」と短く了承して、大きな腕の膜で私を覆い隠すようにしてくれる。

駅の裏側まで連れてきてもらい、「ここでいいか」と複製の口が目の前で問う。この口、ちょっとかわいい。
「うん…ありがと」
駅の裏側というのは存外人気のないものなのだな。この中にわんさと人がいるのに、壁を一枚隔てると驚くほど閑散としている。

ここならもう、彼以外見ている人はいない。脱力して壁に背を預け、そのままズルズルとしゃがみこむ。
「苗字、」
「…っ、ふ、ぅ、う、うぅぅ〜っ…」
心配して複製した目を向けてきたようだが、膝に顔を埋めてしゃくり上げ始めた私に、無理に言葉をかけようとはしてこなかった。代わりに、ぽんと頭に手を載せて優しく撫でられる。

彼は、一人で泣かせてくれない。人の気持ちに寄り添って、優しく支えてくれる、そんな救け方をしてくれるヒーローだ。どんな気持ちも、思いも、その大きな腕で受け止めてくれるのだろう。
だから、今だけは思い切り泣いてもいいかな。


「……落ち着いたか」
「ぅっ、グス…う゛ん゛……すっきり、した」
出てくるのに任せてただ涙を流して、もうなんで泣いてるのかよくわからなくなるほどに泣いたら、幾分か溜飲が下がったような気分になった。

「…もう完璧に遅刻だね、ごめんね」
「気にするな」
「……ありがとうね、障子くん」
「いや……ああ、」
「あと、できれば…無理だろうけど、このことは忘れて欲しいかな」
痴漢のことも、子供みたいに泣きじゃくったことも、あまり記憶には留めて欲しくはない。

「それは…無理かもしれないな」
「そっか」
「腸が煮えくり返るほどだった、きっと一生忘れられない」
「そ、そこまで?」
「次に見かけたら…ヒーローとしての道を外れてしまうかもしれない」
「何する気!?」
怖い。ただでさえ強面の障子くんの顔が怒りに歪んでいるのは、迫力が3倍くらい増している。


「なあ、もしよければ…明日から、一緒に登校しないか」
「へ?」
「今日のようなことは避けられる、と思う」
「え、いやそんな、迷惑じゃ…」
「迷惑なら、自分から言ったりしない。…苗字が嫌なら、無理にとは言わないが」
「い、嫌なんかじゃないよ…!」
むしろ願ったり叶ったりというか、そんなオイシイお誘いを貰えるなんて夢かと思う程だ。
好きな人と一緒に登校とか、なんだそれ。禍福は糾える縄の如しとかいうやつか。…その流れで行くとこの後悪いことが起こるからやめておこう。

「でもその、ほら、私と変な噂になったりしないかな、そしたら障子くん嫌じゃない?」
飛びつきたい誘いなのに、なぜか口からは否定的な言葉がくるくると出てくる。やめろ、鎮まれ私の口!

「苗字となら…まあ、構わない」
「えっ」
何それ、どういう意味?ねえ障子くんちょっとそこ詳しく。

「それより、明日からそういうことでいいか」
「え…えっと、はい、よろこんで…」
待って私つい「よろこんで」とかポロっと言っちゃったけどいらなかったよね?今のいらなかったよね?ああもう、さっきから混乱してばっかりだ!

でも、こっちに向けられた障子くんの複製口がふっと弧を描いた破壊力が凄すぎて、頭が真っ白になってしまった。

「じゃあ、学校に行こう」
「あ、うん…」
もう震えてはいない足で、歩き出した障子くんの隣に並ぶ。ああ、明日から毎日、これか。

ちょっとだけ、痴漢に遭ってよかったな、と思ってしまったのは秘密である。



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