神話の中でしか見たことのなかった女神が、まさか本当に俺の前に現れるとは夢にも思わなかった。久遠は鯖の女神だと思う。ちょうど鯖をきらしてタイムセールにも足を運べず絶望のふちにいた俺にそれを恵んでくれたあいつをそう呼ばずになんとするのか、俺には検討もつかない。
久遠は女神だ。
何を勘違いしていたのかスクールバックが思いっきり腹にのめりこんだときはさすがに堪えたけど、それでもやっぱり女神は女神だった。
俺はもっと久遠のことが知りたい。知れば知るほど楽しいし、可愛いし、久遠は表情が豊かだから、見ていて面白い。
水以外でこんなにも興味を持ったのは、初めてだった。


「あたしも遙先輩のこと、まだよく知らないけど優しいから好きになれそうな気がします」


女神女神と言っていたけど、加えて久遠は天使なのかもしれない。
そんな彼女の隣を歩ける俺は、もしかしなくても世界一幸せなのかもしれない。知らず知らずのうちにこぼした笑みは、温かかった。

鯖を焼いてやる約束をした。


「お、じゃましまー・・・す」
「お邪魔します」


玄関から顔を覗かせた久遠と真琴。今日は部活が休みだからと久遠の教室まで行って誘ったとき、「さすがに心配だから俺も行くよ」と困った笑みを浮かべていた真琴。なにが心配なのかよく分からなかったけど、居て邪魔な存在じゃないから二つ返事で頷いた。
火にかけた鯖が、そろそろ仕上がる頃だ。

そろりそろりと後をついてくる久遠は、犬みたいで可愛い。いや、犬より何倍も可愛い。やっぱり天使だ。真琴は、ゴールデンレトリバーみたいだ。


「うわ、いい匂い」
「遙は一人暮らしだから、料理も・・・とくに鯖料理は大得意だよ」
「すごいですね」


すごい、ともう一度呟いて笑った久遠を直視できなくて、顔を背けながら「そんなことない」。女神って言葉も天使って言葉も当てはまらない気がしてきた。久遠は俺を喜ばせるのが大得意なのかもしれない。まだ知り合って日は浅いけど、彼女は会うたびに心の中を乱してくる。

人数分の取り皿を出して、箸を並べて、ご飯もよせる。焼きあがった鯖を皿に乗せれば、久遠の瞳が輝いたのがわかって、俺も少し嬉しくなった。
鯖のタイムセールに行ってたのだから、彼女も鯖が好きなんだ。きっと。


「うちの母が焼くのより美味しそうです!」
「だってハル。よかったね」
「じゃあ、毎日でも焼いてやる」


くすりと笑った真琴をねめつけるように睨んだ久遠の頬は若干朱色に染まっていた。なんだか真琴にむっとしたけど、気持ちを押し殺して熱でもあるかもしれないと手を伸ばす。やっぱり熱い。
大丈夫かと真剣に聞くと、久遠は「遙先輩って天然ですよね」・・・言ってる意味がよくわからなかったけど、大丈夫ならよかった。
風邪でも引かれたら俺はきっと心配しすぎて学校に行けないから。

それにしても、俺に鯖を分け与えてくれた女神だけど、久遠は俺だけじゃなくて真琴ともすぐに仲良くなった。
人の心に入り込むのも得意なのかもしれない。天使なのは、俺の前だけでいいのに。


「そういえば、渚から聞いたんですけど」
「渚?」
「はい」
「渚?」
「?ええっと、はい。葉月渚」


くせっ毛の頭とくりくりした瞳の渚を思い出す。むかむかする。なんだ"渚"って。俺は遙先輩なのに、ずるい。
真琴が傍でまた笑った。むかむかする。


「水泳部、二ヵ月後?大会があるんですよね。差し支えなければ、応援に行こうかなって思ってるんですけど」
「ええ!久遠ちゃん来てくれるの!嬉しいなぁ」


それは俺が言おうと思ってたんだぞ、真琴。


「渚や怜くんには前々から誘われてたんですけど、やっぱり先輩たちの許可ももらっておこうと思って」
「許可なんてそんな。嬉しいよ!ね、ハル」
「・・・ああ」


だからなんでお前が全部言うんだ、真琴。
視線を外して箸で鯖をつつく。「遙先輩」久遠の声がして顔を上げれば、少し眉尻を下げた彼女が俺の顔を覗きこんでいた。っ、心臓に、悪いかもしれない。


「行ってもいいですか?応援」


不安げに揺れる瞳に、何のことなのか分からずフリーズする。さっき、真琴が嬉しいって答えてたし俺ももちろん嬉しいから頷いたのに。
もう一度小さく頷けば、彼女は安心したように笑った。・・・逆に、久遠が来て嫌な気持ちになるなんて万が一にも有り得ないのに。


「難しい顔してたから、嫌なのかと思いました」
「それは」
「?」
「真琴が全部先に言うから」
「あはは、ごめんごめん。面白くって、つい」


何が面白いんだ。
確かにコロコロ表情の変わる久遠は天使で見ていて面白いけど。
笑う真琴を少し睨んで、久遠に向き直る。彼女に配った鯖は綺麗に食べられていて、温かい気持ちになった。


「ごちそうさまでした!めっちゃ美味しかったです!」
「ああ」
「俺も、ごちそうさま」


箸を置いて、丁寧に手を合わせる。
小さくお辞儀をした久遠の頭に吸い寄せられるように手を伸ばして、数回撫でた。最近は会うたびにこうしてる気がする。
ふわふわの久遠の髪の毛は、触ってて気持ちがいい。


「お前が喜んでくれたから、俺も嬉しい」
「ふっへへ」


はにかむように笑った久遠を抱きしめたい衝動に駆られる。なるほど、真琴はこういう時のために俺も行くって言ってたのか。

天使すぎてどうすればいいのかわからなくなってきた。

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