「まだ小学生だった頃、一回だけ郁弥くんを見かけたことがあった」
「・・・、どこで?」
「バス。おばあさんが乗ってきて、満員だったから・・・席を譲ろうかって迷ってたら郁弥くんが素早く立ってさ」
「覚えてないな」
「うん、だってそれが当たり前だって感じの顔してたから。でもそういうことできるのって、少なくともあたしの中では勇気がいることだったからすごいなって」
「じゃあ、なんでもっと早く話しかけてこなかったんだよ」
「あたしそんなに勇気ある子じゃないんだよ。中学に入りたての頃、郁弥くんすごく怖い顔してたもん」
「、それは・・・まぁ、そうかもしれない、けど」


なにもかもを否定していた自分を思い出す。
世界はこんなにも広くて、冷たくて、そして温かいものだった。それを知った今では、上手くいかないことがあってもイラつきはすれど以前のように拒んだりはしない。
いつまでも逃げていては、いけないと気づいたから。

辺りはもう真っ暗だ。
郁弥は立ち上がって、手を差し出す。
久遠はきょとんと固まり、じっと彼の手を見つめた。


「掴まれよ・・・なに見てるんだよ」
「あ、りがとう・・・」


ふい、と視線を逸らす。
久遠の手は冷たかった。ずっとこんなところにいたからだ。
プールで倒れた時だってそうだ、彼女は自分をあまり大切にしない人なのかもしれない。
居ても居なくても、誰も気にしない存在。そんな、悲しいのは嫌だ。

―――ぼくが、嫌だ

郁弥はもう知ってしまった。触れてしまった。
久遠の危うさに、儚さに。それに、見た。基本無表情の彼女が、微笑む姿を。

いつまでもあの笑顔が頭から消えてくれないのは、そういうことなんだろう。


「送る」
「え、」
「送る。家どっちだ」
「・・・・向こうの方」


離れないように、冷たい久遠の手を温めるように、郁弥は歩き出す。
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