なんとなく、今日は自分から挨拶をしてみようと思った。
本を読んでいるため少し下がっている久遠の頭。挨拶をするだけなのに、何故こうも心臓がうるさいのか。
きっと初めて自分から声を掛けるからだ。昨日、結局早退してしまった久遠とは、席替えから一週間と三日が経った今でも会話という会話をしたことがなかった。

彼女はまだこっちに気づいていない。
思い切って足を踏み出し、自分の机に鞄を置く。
郁弥に気づいた久遠が顔を上げ、表情を変えないまま口を開こうとした時、咄嗟にかぶせるように呟いた。


「おはよ」


口を半開きにして、久遠はそのまま固まった。
それほど驚かれることをしたのだろうか、郁弥は眉根を寄せてじっと彼女を見つめる。挨拶するまでは緊張のせいか騒いでいた心臓も、今ではだんだんと落ち着いていた。
言ってしまえば、楽になるものだ。

手の力が抜けているのか、支えをうしなった本が指からするりと抜けて閉ざされる。
いたたまれなくなった郁弥が視線を逸らそうとした時、伸びてきた細い手が彼の手首を掴んだ。

ただ驚いて再度彼女に視線を戻す。
久遠自身も自分の行動に驚いたのか、さらに目を見開いて郁弥の手首を掴む自身のそれを見ていた。
妙な沈黙が流れる。
そろそろ、と静かに手を離し、その手で前髪を触った。


「なんか、びっくりしちゃって。・・・ごめん」


搾り出すかのような声。
郁弥は小さく「・・・別に」と呟いてぎこちない動きで席についた。

落ち着いたはずの心臓が、また騒ぎ出している。

―――なんだこれ、苦しいな

落ち着けよと拳を握り締める。
横目で久遠を見れば、もう本を読んでいない彼女はぼうっと自分の手を見つめていた。

△▼△

「楸さん!もう体調は大丈夫なの?」


珍しくギリギリに教室に駆け込んできた真琴は、朝礼が終わるなり郁弥たちの机にやってきてまず始めに久遠の顔色をうかがった。

"お見舞いに覗きに来る同級生の友達なんていなかったのよ"

真琴の中にはずっと、保険医のあの言葉が引っかかっていた。
半年も一緒のクラスに居て、気づかなかったなんて。いつの間にか空席になっている机が時々あった。それを誰も気に留めなかったし、真琴自身も、あまり深く考えてこなかったのだ。

罪悪感のせいか、眉尻の下がった彼の表情に久遠は不思議そうな顔をする。


「うん、大丈夫。帰ってからもずっと寝てたから」
「そう・・・よかった」


そうだ、と真琴が悪戯な笑みを覗かせながら郁弥を振り返る。
嫌な予感がした。咄嗟に真琴の腕を掴もうとするが、コンマ一秒真琴の口の回りのほうが速かった。


「りんご、おいしかった?昨日、郁弥くんと一緒に保健室に行ったんだけど、楸さん寝てたから先生に預けておいたんだ」
「え?」


ね!と可愛らしく首を傾げる真琴に郁弥は内心項垂れた。
そんなこと、言わなくていいのに。

痛いくらいの視線を感じる。見なくてもわかる、きっとその視線の先にいるのは久遠だろう。

―――別に、橘に無理矢理連れて行かれただけで、

言葉にすることなく、郁弥は久遠の視線から逃げるようにして机の中から教科書を取り出す。


「・・・・あれ、橘くんと郁弥くんからだったんだ」
「そうだよ。元気になるおまじないをこめたんだ」


そんなこと言って、恥ずかしくないのか。
聞いてる郁弥が恥ずかしくなるような台詞を容易く吐いた真琴は、目じりを下げて笑った。
実際あのりんごは真琴の弁当のデザートだったし、無理矢理連れて行かれたようなものだし、変な勘違いをしてもらっては困ると郁弥が視線を上げ口を開こうとした時、


「ありがとう」


少し首をかしげた久遠が、本当に嬉しそうに笑うから。


「・・・っ」


何も言えなくなった郁弥は、ただ「別に」と答えた。
どういたしまして、とまた柔らかく笑った真琴の横顔を少し睨んで、前に向き直る。

心臓は、大きく速く動いたままだ。
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