「郁弥くん、おはよう」


久々に聞いた声だけれど、初めて交わした時の声とは明らかに異なっていた。
鈴じゃない。まるで、古びた戸を無理矢理こじ開けた時のような、そんなしゃがれた声だ。
郁弥は鞄から荷物を取り出しながら、隣の席を見た。大きなマスクに小さな顔を覆われた久遠が、一週間前より少しやつれた様子で座っていた。
風邪でもこじらせたのだろうか。一週間も休むなんて、インフルエンザなのだろうか。
郁弥の予想は、見事に的中した。
何も聞いてはいないのに、久遠はさも当たり前かのような瞳のまま話を続けた。


「今の季節に、インフルエンザとかついてないね」


そうだね、と言おうとしたところで朝礼が鳴る。
開きかけた口を閉ざして、郁弥はいつものように前に向き直った。
たった二日言葉を交わした(一方的に喋られて終わるけれど)だけでは、やっぱり彼女のことはわからないままだった。

だから、人間関係のああだこうだは面倒なんだ。
郁弥はそっと息をつく。同時に、誰とでも分け隔てなく接することができる真琴が、少しだけうらやましく思う。

▼△▼

体育から教室に帰ってきた時、そこに久遠の姿はなかった。
体育の授業は男女別で行われるため、終わる時間も若干異なる時がある。
そして季節は夏。外でソフトボールをする郁弥たち男子とは違い、女子はプールだったはずだ。
そこで、はたと我に返った。

―――なに、あいつのこと考えてるんだ、ぼくは

よくわからない。
二日喋って、一週間休んで、しゃがれた声で戻ってきた彼女の横顔が、頭に浮かんだ。
先日感じた悔しさを再度噛み締めながら弁当を取り出そうとしたとき、慌てた様子の真琴に名を呼ばれる。


「郁弥くん!郁弥くん!」
「・・・そんな大きな声で呼ばなくても聞こえてるんだけど」
「大変だよ!楸さんが、プールの授業が終わった途端倒れちゃったんだって!」
「は?」


―――なんで橘はそれをぼくに言うんだ?

だからどうしたといわんばかりの表情をする郁弥に、真琴は眉を寄せた。
なんの反応も示さない郁弥と真琴の間に、少しの沈黙が訪れる。

別に、ただ席が隣なだけで仲がいいわけじゃない。倒れたのが夏也や里美だったら、真っ先に駆けつけるのだろうけど。
冷静な頭でそう考える。同時に、高くはないのに鈴のような声が脳裏によみがえった。


「・・・僕、弁当食べたら保健室行くけど、郁弥くんも行かない?」
「なんでぼくが、」
「行こう!早く弁当食べよ!あ、りんご残して楸さんにあげようかなぁ」


―――聞いてないし・・・

真琴が何故そこまで久遠に対して世話を焼きたがるのか、さらさら理解できないしするつもりもなかったが、そうだ真琴はこういう奴だった、とたかをくくる。
困っている人とか、そういうのをほっとけないのが真琴の兄気質なところだ。
長所とも短所ともいえる。
自分だったら弱っているところは見られたくないから絶対にいやだけど、と悪態は心の中にとどめておいた。

▼△▼

「失礼します」
「・・・失礼します」


少し控えめな声を出して保健室に入れば、独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
優しそうな顔をした保険医の先生が、「あら、どうしたの」と笑顔で問う。
発言どおり、りんごを残して持ってきた真琴が先立って「楸さんの様子を見に来ました」と手にタッパーに入れて持ってきたそれに一瞬視線を落として照れくさそうに笑った。


「彼女ならさっき目が覚めて、今はもう一度眠ってるわ」
「そう、ですか・・・あの、楸さんは・・・?」
「病み上がりなのに無理するから倒れちゃったの。彼女、もともと体が丈夫ではないのにねぇ・・・」


困ったような顔で保険医は片手を頬にあてる仕草をした。
真琴に半ば隠れるようにして不本意ながらもついてきた郁弥は、起きていないのか、とほっと息をつく。
起きていたとして、なんと言葉をかけていいのかわからなかった。
そもそも、お見舞いに来るほど親しくもないのに、と真琴に気づかれないように中学生にしては大きな背中を睨む。


「じゃあ、これ、楸さんに渡しておいてくれますか?」


差し出されたりんごを何故かものめずらしそうに見た保険医は、「わかったわ」と微笑んでそれを受け取った。


「それにしても、楸さんのお見舞いって初めてだから驚き。それも男の子なんて」
「え?」


間の抜けた声をあげた真琴と同じように、郁弥も驚いて保険医の浮かべる困ったような笑みを見つめた。


「彼女、今までも何度か体調崩してここ来てるけど、お見舞いに覗きに来る同級生の友達なんていなかったのよ」


その時見た真琴の表情は、申し訳なさそうな、悲しそうなものだった。
もっと早く気づけてればよかったとか、そんなことを考えているのだろう。おおよそ、郁弥とは正反対の性格をしている。

郁弥には夏也や里美がいた。
最近は、水泳部で仲間と呼べる者たちも出来た。

カーテンの向こうで眠っているであろう久遠は、そんな人がいないのだろうか。
考えて、すぐくだらないと切り捨てる。

―――ぼくには関係ない

そう思うのに、何故。
何故こんなにも切なくなってしまうのだろう。
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