そして彼はサヨナラと言った

「このままじゃシズちゃんが壊れちゃうから、だから忘れていいよ」

その男はそっと呟くと、静雄の目を手で覆う。静雄よりも体温が低いのか、ほんのりとしか体温は感じない。
抵抗しなくては、と心のどこかで反応し、ぴくりと静雄の手が動くと、男は柔らかく笑みを浮かべた。
嬉しそうなその笑みは、優しくて穏やかだ。

――気色悪い。

頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。おそらく、静雄以外が見ればその笑みは見惚れるものかもしれなかったが、そうとしか思わなかった。

「そう。それでいいんだよ、シズちゃん」

意味が分からない。けれども、何か反応せずにはいられなかった。
静雄はあるときを境に、人と触れ合う機会に恵まれなくなった。自身でもよく分からない、怪力のせいだ。
この温度には覚えがある。人に触れることを恐れる静雄に、他人の体温を全身に教え込んだ手だ。

「お休み、シズちゃん。サヨウナラ」

別れの言葉なのに、始まりを告げる言葉のようで。でも静雄にはその意味が分からない。
何が言いたい、と言い募りたいけれど、静雄にはもう男の目は見えない。
怜悧でいて、どこか淋しげで。軽薄でいて、どこか熱い。そんな眼差しはもう、向けられているのかさえ分からない。
ゆっくりと瞼が降りる。いずれ眠りにつくだろう。
彼はそれを望んでいる。けれども、静雄は望んでいない。

俺は忘れたくなんかねぇよ。ふざけんな、馬鹿野郎

何かを呟いたはずだけれど、それは彼に届いたのか、静雄には分からない。
徐々に自分が何を呟いたのかもさえ忘れてしまった。
静雄を待っているのは、心地よい眠り。あとのことは、忘れてしまった。


*****


雀の鳴き声と原付きのエンジンの音が聞こえる。夢だった。
静雄はそう自覚すると、体を起こす。時間はいつもよりずっと早く、まだ6時を少し過ぎたところ。

「な、んだ……?」

夢の中で呟かれた言葉は、驚くほど感情を感じさせないものだった。それなのに、なぜか静雄には淋しげに聞こえた。
そんなはずがない、と静雄の頭の中で誰かが叫ぶ。“この男”はそんな淋しそうに声を出したりなんてしない、と。
けれども、もう静雄には分からない。

「意味分かんねぇ……」

静雄はため息を吐き、起き上がる。少々だるさはあるけれど、もう一度寝る気にはなれなかった。
仕事へ行くために支度を始めると、手首に小さな痣があることに気付く。
静雄は特異な体質であり、痣なんて一日も経てば消えてしまう。それなのに、この痣に覚えはなかった。
滅多なことで怪我をしないせいか、疎くなってしまっているのだろうか。静雄は首を傾げる。
何か、自分でも分からない何かがひっかかる。

「痣……」

痣が残るほど、強い力で握られたのだろうか。分からない。
痣が残るほど、ぶつけたのだろうか。分からない。
ただ、この痣が無性に気になって仕方がなかった。
静雄はじっと痣を見つめる。ぐっと押してみても、痛みはない。
いずれ消えてしまうだろうこの痣が、なぜだか消えてほしくないような、そんな気持ちになった。
静雄はため息を吐くと、手首が見えないようボタンを留めた。


つづく


序章なのでちょっと短めで。シリアスです。


11.10.18


[next→]

[back]

[top]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -