しらないことたくさん
にこにこと笑う。子静は今日もご機嫌だった。
サイケがいて、津軽がいて、モニターの向こうにはマスターである臨也がいる。
子静は、この空気が大好きだった。
「ますたー、ますたー!」
開いていたウィンドウの影から子静が声を掛ければ、仕事をしていただろう臨也の目が子静に向かう。
「どうしたの?」
「シズちゃん、きょうはくる?」
こてん、と首を傾げて子静が問うと、臨也は優しく笑う。
子静はマスターである臨也が笑っているところしか知らない。
難しい顔をしていても、子静が声を掛ければ笑ってくれるのだ。
「そうだなぁ……多分今日は無理だね。このところ忙しいみたいだし」
「シズちゃん、いそがしい……」
臨也の言葉に、子静はしょんぼりとして俯く。
自分や津軽に似た静雄が、子静は大好きだ。
臨也に比べて怖い顔をすることは多いけれど、それは子静にはないもので、密かに憧れている。
穏やかで優しい津軽のことも大好きなのだが、不器用な笑みを見せてくれる静雄も大好きなのだ。
「子静はシズちゃんが好きだね」
「うん。シズちゃん、ラブ!」
子静が嬉しそうににぱっと笑うと、臨也は困ったように微笑んだ。
しょうがないな、と言って、臨也は何でも許してくれる。
先日、子静が謝ってデータファイルを壊してしまったときも、こうやって笑って許してくれた。
臨也のことは大好きだけれど、それが子静はちょっとだけ不満だった。
臨也は滅多に怒らない。津軽に対しても、うっかり津軽が大音量で歌ってしまったときも、こうやって笑って許していた。しかし、サイケだけは違う。
臨也はサイケのことだけは、きちんと叱るのだ。
「むぅ……」
「子静?どうかしたの?」
「……なんでも、ない」
臨也の言葉に、子静はぷるぷると首を振って否定を示す。嘘だった。
臨也にバイバイと手を振ると、子静はサイケと津軽のいるフォルダへと帰って行った。
*****
「マスターとおしゃべりしてたのか?」
帰ってきた子静を迎えたのは、津軽だった。
子静は津軽と目を合わせると、こっくりと頷く。
「シズちゃん、これないんだって」
「忙しい、らしいな」
「うん……」
しょんぼりする子静の頭を、津軽が優しく撫でる。
津軽はいつも優しい。臨也とは違うけれど、いつだって優しくしてくれる。
頭を撫でられるのは嬉しいけれど、子静は複雑な気持ちになった。
なんて言っていいのか分からない。モヤモヤとして、落ち着かない。
「あぁっ!もう無理だよ」
そんなとき、突然サイケが声を上げた。めずらしい。
驚いて子静が見ると、サイケはため息を一つ吐いた。
「さいけ、どうしたの?」
津軽の着物の裾を引くと、子静は首を傾げて尋ねた。
すると、津軽はふ、と一つ息を吐くと、にこりと笑った。
「フォルダの中身を、間違えてぐちゃぐちゃにしたんだ」
「ぐちゃぐちゃ?」
「そう。だからマスターに整理するように言われてる」
津軽からサイケに視線を移す。
にこにことしているものの、どうやら津軽は怒っているらしかった。
子静はまだまだ知らないことばかりだが、毎日顔を見ているサイケと津軽のことなら分かる。
「つがる、さいけとけんかしたの?」
きょとんとした顔で尋ねると、津軽の顔から表情が消えた。
最近はよく笑っていたから忘れていたが、これが津軽の通常だ。
子静は思わず、息をのんだ。津軽は怒っていると、そう確信した。
「つがる……?」
子静に対して一度微笑むと、津軽は何も言わずにフォルダから出て行った。
初めてだった。津軽が怖い、と感じたのは。
どうして津軽が怒っているのか、子静には分からない。
子静はぶんぶんと首を振ると、サイケの方へと駆け寄った。
「さいけ、さいけ!」
「ああ、子静……おかえり」
「ただいま!さいけ、つがるおこってた!」
「あー、うん……」
子静が心配そうな顔でサイケを見上げると、サイケは困ったように笑うばかりだ。
どうして何も話してくれないんだろう、と子静は淋しくなる。
そんな子静に気付いたのか、サイケは子静の頭をそっと撫でた。
「ちょっとね、怒らせちゃったんだ」
「どうして?」
困った顔をするサイケは、ちょっとだけさっきの臨也を思い出させる。
同じ理由なのかもしれない。二人が笑ったのは。
「シズちゃんに会いたいな、って言ったんだ。ほら、この頃顔を見せてくれないでしょ?」
「うん」
「そしたら急に機嫌悪くなっちゃって、フォルダのデータ投げ付けてきたんだ……ヤキモチ、だったら嬉しいんだけどなぁ」
そう言って笑うサイケは、どことなく嬉しそうだった。
子静にはよく分からないけれど、そう感じた。臨也もそうだった。
「やきもち、うれしいの?」
「津軽には内緒だよ?」
子静が大きく頷くと、サイケは優しく笑ってくれた。
みんなが優しくしてくれるのは嬉しい。それでも、優しくするばかりなのは淋しい。
子静はじっとサイケの顔を見つめた。
「さいけ、どうしてやさしいの?」
「え?」
他に尋ね方が分からない。子静は思うままに尋ねた。
「さいけ、こしずのこと、おこらない。どうして?」
子静の言葉に、サイケは驚いたように目を丸くした。
それでも、子静はじっとサイケを見つめる。きっとサイケなら、答えをくれると信じて。
「怒るようなことをしていないからだよ」
「え?」
「怒られるようなことしたの?したんなら怒るけど、悪いことしてないのに子静を怒らないよ」
サイケの言葉に子静はゆっくりと頷いた。
「ありがとう、さいけ」
「子静は津軽とも俺ともちょっと違うね」
サイケは穏やかに微笑む。その理由が子静には分からない。
けれども、一つ答えを得た子静は、満足そうに笑った。
おわり
'10.10.04 七草
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