Gin
翌日、茜は軽い足取りで出勤することが出来た。深酒をしなかったということも理由の一つだが、悩んでいた問題に光明が差したという理由もあった。

ある意味開き直っているともとれるが、煮え切らない態度の方が恐らくジンを苛立たせるに違いない。

「加賀美さん、この書類幹部の人から至急承認もらってきて」

「承知しました」

出勤早々、上司から実験の承認案件の書類を預かった。丁度自分の手元にもジンに確認が必要な書類がある。

昨日は声をかけにくく、手元に留保したままになっていたものだった。

ただ、そのまま書類を渡したのでは面白みに欠ける。そう思った茜は一つ悪巧みを思いついた。



ジンがいる部屋の前まで来ると、茜は一度呼吸を整えた。ノックの後、入室を促すジンの声を確認してから入室する。

茜の姿を確認すると、ジンは一瞬眉間に皴を寄せ、視線を確認中であろう手元の書類に落とした。

「承認をいただきたい案件があるのですが」

「そこに置いておけ。後で確認する」

ジンは茜に長時間の滞在を許さないようだった。しかし、それしきのことで引き下がる彼女ではなかった。

「いえ、急を要するものがあるので、今ご確認をお願いします。今後のスケジュールに支障をきたしますので」

するとジンは茜の手から書類を奪うように受け取ると、その中身にざっと目を通した。

最後の一枚で急に表情が険しくなり、そのまま茜に鋭い視線を向ける。

「何だこれは?」

「婚姻届です」

茜が書類の中に紛れ込ませていたのは、必要事項をほぼ記入済みの婚姻届だった。後はジンの現住所と捺印ですべてが埋まる。

「……何を考えているんだ、お前は」

「イッツジョークってやつですよ。昨日からジンさんが暗ーい顔してるから」

「ふさけるな。誰の所為だと……もういい、行け。承認は俺が直接該当部署に伝える」

感情を露わにしかけたが、ジンはそれを抑え、茜に退室を促す。

「質問に答えて頂ければすぐにでも」

茜は声が震えそうだったが、あくまで平静を保つように淡々と言う。

その質問の内容を察したのか、ジンは間髪入れずに口を開く。

「あの夜の事だったら、忘れろと言ったはずだ」

「忘れてますよ、一部は。でも聞くなとは言ってませんよね?」

まるで屁理屈のような茜の言い草に、ジンは一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに反論する。

「忘れろ、ということがどういう事なのか理解できないほど馬鹿だったのか、お前は」

茜を嘲笑するようにジンが言う。

「そうですね。馬鹿なんじゃないですか?来るもの拒まずで女を取っ替え引っ替え、若干パワハラ気味で狡賢くて、そんな男にたまたま優しくされたからって好きになって。

でもそれを認めたくなくて強がって相手を傷つけても自分を守るのに必死で、こんな形でしか気持ちを伝えられないとか。そんな人間、馬鹿以外の何者でもないですよね」

茜は思い切り捲し立てたせいで息が上がる。胸が苦しいのは、酸欠の影響だけではなさそうだ。

喋っている途中でジンの表情が少し変わったことは分かったが、それはただ単に驚いているだけかと思っていた。

「以上ご清聴ありがとうございました。笑えないジョークはさっさと引き下げて退散しますね」

ジンの手からネタとして持ってきた婚姻届を取り上げようとした。しかし、その手は空を切る。

「いや、もう必要ないですよね?それ」

「今後必要になるかもしれねぇだろ?俺が責任をもって預かっておく。もちろん、必要事項は全て記入した状態でな」

ジンが不敵に笑う。茜は自分のちょっとした悪巧みが、思いもよらない方向に転がりそうなことに不安を覚えた。
しかし、ジンが気まずくなる以前の状態に戻っていたことに、少し安堵していることも否定できなかった。

「では、保管だけお願いします。くれぐれも提出の際は一度ご相談いただけますようお願いします」

「さぁな?これがお前の答えだと俺は理解したんだが」

ジンがこちらに向かって距離を縮めてくる。反射的に茜は逃れようと後ずさりしたが、すぐに壁に当たる。ドアからは1mほど距離があった。

「申し訳ありませんが、承認された書類を提出しなければなりませんので……」

「それは俺がやっておくと言ったはずだ。そうすれば30分程度時間に余裕ができる」

視線が合うと、彼の目の奥に妖しい光が揺らめいていた。30分で一体何をどこまでする気なのだろうか。

ドアの方を向くと、すでにジンの手によって進路が塞がれている。エレベーターでもそうだったが、ここまでスムーズに対象の動きを封じることが出来るということは、このようなシチュエーションに慣れているとしか考えられない。茜は少しだけ胸の奥が痛くなるのを感じた。

そして、そんな青臭いことを考えてしまう自分がおかしくて、笑いが込み上げてきた。

「何がおかしい?」

「いや、何かもう全部が。惚れた弱みってやつを実感してます」

「それは奇遇だな」

ジンの大きな手が茜の頬から首筋に滑り、顎に添えられる。

視線と唇の距離が徐々に狭くなっていく。心臓の音がうるさいくらいに大きくなり、脳内まで響いてきた。

改めて自分の想いを自覚してしまった動揺を誤魔化すかのような言葉が口をつく。

「監視カメラに映ってますけど」

茜が言い終わるか否かのタイミングで唇が重なる。二、三回角度を変えて啄まれたが、意外なことにすぐに唇を離された。

「そんなこと気にするな」

「気にしますよ、そりゃ。人目に晒されながらなんて嫌に決まってるじゃないですか。まさか、そういう趣味があるんですか?」

そう茜が言うと、ジンはふっと笑って言った。

「それも面白いかもしれねぇな。噂が広まるのは速い。お前が誰のモノなのかわかれば手を出す奴もいないくなるだろうな」

「それと同時に評判も地に落ちますけどね、お互いに」

「お前となら堕ちていくのも悪くない。そう思える程度には、俺も馬鹿かもな」

唇が触れそうな距離で、焦らすようにジンは言う。

「堕ちるなら一人でどうぞ、わたしはそこまで馬鹿じゃないので」

そう言いつつも茜はジンの背中に腕を回し、力を込める。

「冷たい奴だな。惚れた弱みはどこにいったんだ?だがまぁ残念なことに、ここは監視カメラの死角だ」

「監視カメラに死角ってまずいですよね?」

「俺が設置したなら誰も文句は言えないだろう?そうでなければ、ここでお前とこういったことも出来ないからな」

再び迫ってくるジンだったが、茜は顔を背ける。少し憮然とした表情になったジンだったが、茜の首筋に唇を押し当てる。

「はいはい他の方にも言ってるんですよね」

一瞬びくりと反応した彼女だったが、平静を装ってジンに冷めた視線を向けた。

「何だ、妬いてるのか?これからは、お前だけにしてやってもいい。お前が俺を満足させられるのならな」

なおも茜の首筋に顔を埋めながらジンが言う。言葉が直接皮膚から伝わってくる。

「あ、それは無理なんで。わたし、結構淡白な方なんで」

「ほう、あの夜あんなに激しく求めてきた奴の台詞とは思えねぇな」

「……わたし、一体何してたんですか?」

茜が恐る恐る聞くも、ジンはすぐには答えなかった。ニヤリと笑い、唇を耳元に寄せると吐息交じりに囁く。

「教えてやらねぇよ」

ぞわっと全身が粟立ち、体温と脈拍が一気に上昇する。恐らく頬は真っ赤だったに違いない。そんな茜の表情を満足げに見つめた後、ジンは口づけをした。

その思いの外、優しいキスとジンの体温は茜の中で忘れられないものになった。




おわり


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