目的の階に着くと、一瞬何をしに来たのか忘れかけたが、資料室の資料を整理しようと思っていたことを思い出す。
茜は片っ端から資料の並び替えを始める。どうせ今日の分の仕事はほぼ終了している。
不要なものがあれば適当に処分してしまった方がいい。
一心不乱に作業していると、いつの間にか時刻は深夜を回っていた。少しすっきりした気分にはなれたが、そこまで空腹感は無かった。
このフロアは元々人の往来は少なく、休憩スペースにも滅多に人が来ない。
今日は夜勤の人たちで賑やかな食堂に行くよりも、ここで静かに過ごしたい気分だった。
幸い自販機には軽食の類もあったので、機能性栄養食品と緑茶を買う。
「あれ、茜さんじゃないですか」
急に声をかけられ驚いて振り返ると、そこにいたのはバーボンだった。
「ああ、えーとバーボン、さん?」
「呼び捨てで構いませんよ」
バーボンは人受けの良い笑顔で、隣に座ってきた。
「珍しいですね、こんなところでご飯ですか?」
「それはこっちの台詞です。こんな寂しい場所に何か用ですか?」
茜は、ぼそぼそと機能性栄養食品を齧りながら言う。
「……茜さん、何かありました?何かこの世の終わりみたいな顔してますけど」
「質問を質問で返します?普通」
自販機でコーヒーを買いながら、バーボンは茜の顔を覗き込むようにして見る。
視線を外しても、ずっとこちらを見てくる。その好奇心に溢れた視線に根負けして、茜は事の次第をかいつまんで話すことにした。
「誰かと大事な約束をしてさ、それを自分が忘れてしまったとしたらどうします?しかも答えなきゃいけない質問付きで」
「大事な約束なのに忘れるんですか?」
バーボンから、もっともなツッコミが入る。
「まあ、お酒とか飲んでたりとか?その後に衝撃的な出来事があったりとかしたりしたら、忘れることだって……」
「僕でしたら、その約束した人にもう一回聞きますね。知ってる人に聞いた方が早いですし」
「聞く時点ですでに忘れてるってことを認めてるってことですよね?相手めっちゃ傷つきません?」
先ほどのジンの表情が思い出される。すでに大分傷つけた上に信用まで失っている。
「でも、相手は質問の答えを待ってるんですよね?憶えているふりをしてずっと答えない方が、残酷だと思いますけどね」
「まあ、それもそうですけど……」
聞けば聞くほど正論だが、正しいからといって最良の結果を得られるとは限らない。
「茜さん」
「何ですか?」
「飲みに行きませんか?」
いきなりの誘いに、茜は一瞬思考が停止する。
「うじうじ悩むなんてらしくないですよ。それに、お酒好きですよね?
とりあえず一回全部リセットしてから考えた方がいいと思うんですけど」
捲し立てる様にバーボンが言う。心なしか、距離がどんどん近づいているような気がした。
「あの、わたし夜勤なんで……」
「もう今日の分の仕事、終わってるんですよね?」
「まぁ、……はい」
何故、わたしの仕事の進捗具合を知っているのだろうか。茜が眉をしかめながら頷く。
「でしたら、行きましょう」
「はぁ……わかりましたよ」
そう答えると、バーボンの口が弧を描く。
「では、行きましょうか」
これで本当にいいのだろうかと思いつつも、考えれば考えるほど深みにはまりそうだったので、とりあえず気晴らしが出来るのはありがたかった。
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