第六話
目を覚ます。
酷く怠い気がして身体を起こすと、揚羽は堪らず再び布団に横たわった。
刀剣を顕現した翌日は、いつもこうだ。
多くの霊力を使い、刀を人の器に移し変える。そしてこの身体は失われた霊力に追い付かず、休眠しようとするのだ。
だが、今回はとくに酷い気がする。
大典太にかなりの霊力を持っていかれたらしい。
確か、三日月のときもこうだった。あの時は丸一日寝込んだか。
「参ったな…」
もしも今時間遡行軍が現れたり傷付いた刀剣に手入れが必要な状況になったら、対応しきれるかわからない。
揚羽は迫り来る眠気に抗いながらも、目を閉じる。
あと、もう少し…
どれほど時間が経ったのか。
ふと目を開いた時、目の前には赤い双眸が、まるで探るように見下ろしていた。
「大典太」
猛禽類に似ている、そう思った。
獲物を狩るような鋭い眼差し、面長で四肢が太く長く、がっしりとした体躯。
「どうしたの?」
ニコリと笑みを張り付けて問うが、大典太は微塵も表情を変えずに揚羽の顔の隣に手を置いた。
「ずいぶん貧弱な霊力だな。力を使った直後だからか、それとも、そもそもその程度なのか…」
「悪いけど、疲れているの。何の用?」
「お前が仕えるに値する主か知りたい」
そう言った大典太に、揚羽は一瞬目を見開いて、それから鋭い赤い双眸を凝視する。
「望みは何?」
「対価だ」
対価とは、まさにそれらしい言い分だ。
付喪神、式神、使い魔、鬼…
彼らを指す呼び名は幾多あれど、どれもが人を食らうことに変わりはない。
「この世に未練などないが、顕現されたからにはお前に使われる理由が欲しい」
「未練がないと言う割りに、顕現に応じたのね。良いわ、それが必要な対価ならば、支払いましょう」
三日月は主の部屋の障子を開けた。
いつになっても主が起きて来ない、そう訴えたのは燭台切だった。
本丸の厨房を預かる彼が不安げに言ったことに、三日月は様子見を勝手出た。
大方、顕現で霊力を使い寝込んでいるのだろう、そう思った。
「揚羽?」
だが、三日月がいくら探せど、その姿は本丸の何処にもない。
揚羽の霊圧を探ると、そこは意外な場所だった。
「…これが、私が審神者になった理由よ」
見つめる先には墓碑がある。
そこに刻まれた名前に、大典太は瞠目した。
「これは、お前の…」
「ええ。私の両親は、私が十五の時に命を奪われたの。…歴史修正主義者の、手によって」
「…」
「あの時のことは、決して忘れない…だけど、私の目的は復讐じゃない。同じように命を奪われる人をなくすこと。そのために、歴史修正主義者を止める力が欲しい」
揚羽は大典太に掌を差し出した。
言霊とは、言葉によりそのものを操る呪術である。
そして、真名を知ること、それは存在自体を縛る最も簡単な方法だ。
揚羽には、その心得がある。
だが、そんなものを使う必要はない。
揚羽の覇気に、大典田が感じたのは畏怖、それから畏敬。
「そのために…私の願いを叶えるための力となりなさい、大典太光世」
「…女だと思って、見くびっていたのは俺の方だったみたいだな。良いだろう」
大典太はニヤリと口角を吊り上げると、揚羽の手を取り、力強く引き寄せる。
細い身体を胸に庇うと、腰の刀を引き抜いた。
「お前に、俺の全てをくれてやる」
一閃する凶刃は宙を裂き、木々を薙ぎ払う。
数十メートル後ろの物陰から揚羽を弑そうと潜んでいた時間遡行軍が、大典太の斬撃に倒れ伏した。
何て馬鹿力だろう。
ぞっとする揚羽に、大典太は笑う。
「揚羽!」
不意に聞こえた声に視線を上げると、そこに居たのは三日月だった。
「大典太っ! 主を無断で連れ出すなど、何を考えている!!」
こちらに来る三日月の顔が険しく歪む。
そういえば、本丸を出ることを三日月に言わなかったのだと思い出した揚羽が背筋を凍らせるが、当の大典太は冷ややかに笑ったまま。
そして何を思ったか、揚羽の上半身をぐっと強く抱き寄せ、突然唇を奪った。
「…んっ?」
一瞬何が起こったかわからず瞠目する揚羽を余所に、大きな掌で顎を捉え親指で強引に唇を開かせて、ねっとりと舌を絡ませる。
逃げようにも力の差は歴然で、意に反して口内を蹂躙される。
まるで見せつけるように、三日月の眼前に晒されたあられもない姿に、揚羽は動揺した。
「…っ、や…っ」
「やめろ」
三日月が揚羽を大典太から引き剥がし、胸に抱き寄せる。
その珍しく冷たい声音に、揚羽は三日月の顔を見ることができなかった。
「なんだ、腑抜けたジイさんは黙って見ていろよ」
「嫌がる女子に無体を強いるものではない。そんなことも、わからんか?」
三日月に抱かれたまま、揚羽は動悸を抑えられずに胸元を掴んだ。
大典太に口付けられたからではない。
三日月とこれほどまでに近く、肌が触れ合いそうなほど傍にいることが、あまりに狂おしい。
「…っ、」
顕現の疲れもあってかがくりと崩れそうになった揚羽の身体を支えながら、三日月は大典太を睨み据えた。
そんな三日月に臆することなく、大典太は挑発的な言葉を投げ掛ける。
「こんな肝の座った女は滅多にいない。俺は、そいつが欲しくなった」
「…」
三日月と大典太は睨み合う。
空気をピリピリと震わせるような両者の殺気に耐えられず、揚羽は三日月の腕に縋った。
「三日月、お前には邪魔させない」
「…やってみるがいい」
間近から聞こえた声音は、かつて聞いたことがないほど酷く冷たく響いた。
「…あ、雨」
洗濯物を取り込んだ堀川国広が、空を見上げて呟いた。
間一髪で雨に降られる前に洗濯物を全て避難させることが出来たようだ。
ほっと胸を撫で下ろした矢先、次第に強くなる雨足に堀川は表情を曇らせる。
「主さんたち、戻って来ないね…」
同意を求めて視線を向けた先、縁側に面白くなさそうに座る和泉守がいる。
「どーせ三日月が付いてるんだろ。そのうち帰って来るだろうよ」
「そんなこと言って、本当は心配なくせに。雨も強くなってきたし」
「…」
拗ねたように黙りこくった和泉守の顔を覗き込んで、堀川は言う。
「僕は兼さんが一番だと思うよ。主さんは兼さんの本当の良さがわかってないんだよ」
良いこと教えてあげようか、そう囁いて、堀川は内緒事を語るように人差し指を唇に押し当てる。
「僕ね、聞いちゃったんだけど…、主さん、お見合いしようとしてるんだってさ。あんまりだと思わない? 僕たちがいるのにね」
「…!」
堀川の言葉に、和泉守は目を見開いた。
主が結婚するかもしれない、その事実に全身の血の気が引いていく。
そんな和泉守に、堀川は悪魔の囁きのように吹き込んだ。
「だからさ、主さんを兼さんのモノにしたら良いんだよ。誰かに盗られる前にね」
突然降り出した雨に足を取られそうになりながら、道を進む。
「…っ、三日月…!」
後ろを来る女の喉を、悲鳴じみた声が震わせる。
握った手首は細く、冷たい。
それでも、三日月は足早に歩く。最早何処をどう歩いて来たかもわからない。
まるで血液が突沸したように激流し、脳細胞の一片に至るまでを白く染め上げる。
『欲しいものを欲しいとさえ言えない人生に、何の意味がある?』
大典太の言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
一体自分は今まで、何のために我慢してきたのだろうか。
主のため?
いや、違う。
主に触れることを戸惑っていたのは、己が保身のためだ。
主の信頼を失うのが恐かった。
最も重用される忠臣であると言われながら、その忠義を疑われるのが恐かった。
だが、天下五剣、審神者、そんな肩書きなどどうでも良い。
「…っ、俺は…」
三日月は振り返り、揚羽を引き寄せる。
雨に濡れた冷たい身体を抱き締めると、ぐっと腕に力を込めた。
「…三日月…?」
震えた声で、揚羽が呼んだ。
彼女の動揺が腕に伝わるようで、三日月は動悸を覚える。
この先を言えば、きっと元の関係には戻れない。
だが、他の者に奪われるのを黙って見ていられるほど、我慢強くはないらしい。
大切に大切に守ってきた花を他の誰かにくれてやるくらいなら、自らの手で手折ってしまいたい、そう思うほどに。
「俺は…、お前が愛しい」
そう言った三日月の耳には、激しい雨音しか聞こえなかった。