第一話


月を想えど、触れることは叶わない。

想うこと、それ自体は罪ではない。
だが、私の場合は想う相手が人ではなかった、ただそれだけだ。

それだけで、この身は地獄の業火に焼かれるに等しい罰を受けるに価する。


「縁談…私に?」

稲荷神を祀り、古くは陰陽師の末裔である当主は政界に人脈が深く、その比護の下、本丸は京都の一角に居を構えている。
そしてこの日当主が本丸に訪れ、告げた話に揚羽は瞠目した。
まさに晴天の霹靂という言葉が正しいか。
揚羽が審神者となり、本丸で顕現した刀剣は二十数。
女としての幸せなど当に諦め、結婚など夢のまた夢だと思っていた。
だが、突然もたらされた話は、少なくとも彼女には吉報だった。
相手は政界でも有名な名家の出身で、この縁談が成立すれば、間違いなく我家に利益になるらしい。
揚羽私は迷うことなく、当主に答えた。

「きっと、このお話をお断りしたら、この先私に結婚のチャンスはないでしょう。是非、お受けしたいです」
「いいのか? 少し考えると良い。今時家のための婚姻など流行らんぞ」
「それは、恋愛結婚をしろということですか? この私に?」

思わず自嘲した揚羽に、当主は苦虫を噛み潰すような顔で肩を竦めた。

「結婚してから、間違いに気づいても遅いということだ。まあ、よく考えろ」
「…」

また来る、そう言って、当主は席を立つ。
室内に残された揚羽は、遠ざかっていく足音を聞きながら、ふと呟いた。

「…この想いは、報われないのよ」



当主が屋敷の古い廊下を、玄関に向かい歩いていると、ふと背の高い青年とすれ違う。
その風貌は美青年と呼ぶに相応しく、人臭さを感じさせない異質さが、彼を只人とは一線を画す存在であることを物語る。

三日月宗近…
刀匠三条宗近の作であり、天下五剣の一つ。
徳川家を初め、あらゆる天下人の手に渡った、歴史上最も美しいとされる名刀だ。

「おや、当主殿はもう帰られるか」

そう、穏やかだが抑揚のない声音で言った三日月に、当主は歩みを止める。

「今日は帰るさ。あの子と会うと、つい余計なことを言いたくなってしまうからな。あの子の親が亡くなって、もう五年になるのだが」
「…」
「我が姪は美しいが、あれで少々短気で、生き急ぐ癖があってな…。審神者になった時もそうだった」

溜め息混じりに語る当主は、数年前に本丸に入った可愛い姪の姿を思い出していた。
事故で親を亡くしてそれほど経たずに、後見人である当主の前で刀剣を顕現して見せた。それからすぐだ、政府から正式に通達があり、揚羽が審神者になったのは。
融通が効かず、そうだと言い出したら徹底して意思を曲げない彼女を、当時は心配したものだった。
刀剣とはいえ、年頃の娘が若い男たちと暮らすだなどと、何度反対したものか。
だが今は、突然突き付けた縁談話に一切異を唱えない彼女に、妙な胸騒ぎと一抹の不安を覚えている。

「よく、見てやって欲しい」

そう言った当主に、三日月は言われるまでもない、そんな顔で微笑んだ。

「もちろん」




歴史を守る、そんな大義などに興味はない。
私はただ、自分を取り巻く小さな世界を守りたいだけ。
揚羽がそう言えば、あの人はいつも、人とは違う能力があるのに勿体ない、そう言った。

「天皇陛下におきましては、ご健勝のこと、大変悦ばしく存じます…」

本丸とは桁違いの、実に洗練され手入れの行き届いた日本庭園を一瞥し、揚羽は一礼した。
年老いた天皇は若い頃は精力的で、その辣腕を政界にまで振るったとか振るわないとか。だが齢八十を越え、今や心臓を病んだ天皇に、その頃の面影はない。

「よい、頭を上げなさい」

そう言い細った腕を差し伸べた天皇に、揚羽は視線を上げた。穏やかな双眸が彼女を見て、それから背後に控えた部下に向けられる。

「君に預けたいものがある。こちらへ」

天皇が合図をすると、一人の男が何かを持って来た。
トレイのようなものに乗せられ、布で隠れた何かが揚羽の眼前に差し出された。

「これは…?」
「三条宗近、最高の一品…」

そう言った天皇が、トレイの布を取り払う。
現れたのは滑らかな刀身、美しく滴るような光を放ち、刃面に多数浮かんだ打ち除けに、揚羽ははっとした。

「まさか、三日月…?」
「そう…これまで三日月宗近を顕現できる審神者がいなかった。大事に、してやってくれないか?」
「ですが…」

三日月宗近は名物中の名物。

平安時代の刀匠、三条宗近作の現存する二振りの一つであり、現代では国宝に指定される。
私で良いのだろうか、そう言おうとした言葉を、揚羽は呑み込んだ。
国から刀剣の管理を任される、これは審神者の仕事の一つだ。

「拝命、致します」

そう応えた揚羽に、天皇は満足げに微笑んだ。
思えば、それが天皇の遺言だったのかもしれない。それから程なくして崩御した前天皇の墓前に花を供えながら、揚羽は祈った。
とんだ遺言を遺したものだと、皮肉を付け加えるのも忘れない。

「主、」

そう呼ばれて振り返ると、三日月が待っている。
その優美な姿を、誇らしくも目映くも思う。三日月は本丸で、いつも強く確固たる存在だ。
数多の人間たちが、彼を欲した理由がよくわかる。

それは私も同じ…

揚羽は、どうしようもなく三日月宗近という男に惹かれてしまった。
審神者となり、神職に就き、好きな相手と添い遂げる、そんな女としての幸せは諦めた、それなのに。
三日月は簡単に揚羽の決心を打ち崩し、奪い去ってしまった。
私は、この心の内を、愚かな女に過ぎぬ自分を知られるのが恐ろしい。

「…今、行くわ」

揚羽は表情を変えぬように努め、身を翻す。
歩き出そうとして、不意に石畳に足を取られた。

「ぁっ…」

がくんと揺れた視界。
そのまま地面に転びそうになった、その時。

「…目の前で怪我をされては堪らんぞ?」

真上から聞こえた、溜め息混じりの声。
三日月が咄嗟に支えてくれたらしい。逞しい胸に抱かれている状況に、揚羽は一瞬我を忘れた。
蠱惑的な双眸を見上げた、その瞬間に思考を囚われる。

「…三日月、」

その時脳裏に過った考えに、揚羽ははっとした。
馬鹿なことをと自嘲して、三日月から身体を離す。

私は審神者、そしてこの男は、人の形をしているとはいえ、刀剣だ。
想いは空蝉…この想いの先に、結末はない。

「…ありがとう、大丈夫よ」
「それなら良いが。俺が付いていながら怪我をさせたら、皆に何と言われるかわからんからな」
「わかってるわよ」

言いながら、三日月の手を振り払う。
この手は取らない、そう決めた。

まるで何事もなかったかのように、本丸へ帰るため歩き始めた揚羽に三日月は続いた。


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