第七話

「…、」

ほんの一、二分の事だと思う。
壁に押し付けられ、乾に電流から庇われた状況で、目を開けると目の前に銃の形をした顔があった。
普通なら、彼を知らぬ頃なら悲鳴を上げるところ。
しかし妙な雰囲気に呑まれ、揚羽は乾から目を逸らす事が出来なかった。

「…っ、」

呼気さえ感じ取れる距離。
乾の愛煙の匂いが強く香り、思考がぐずぐずに溶けてしまいそうになる。
互いに密着し動こうともせず、見つめ合ったまま次第に近付いて…あと僅かで唇が触れ合うところで、はっとする。

「い、乾さんっ、あと三分!」
「あ? ああ…!」

警備の拡張者達が行動不能になったのを確認し、揚羽と乾はフロアの奥へ急いだ。


**

一ヶ月後、ビル建設の計画は立ち消え、診療所も修繕され、無事診療も再開した。
ヤクザの脅しは綺麗サッパリ無くなり、患者も徐々に戻っており、今後は看護師を雇おうかと思っている。
今のところは順調そのもの。
それもこれも、全部…

「あの、こちらに揚羽さんはいらっしゃいますか?」

突然診療所を訪ねて来た人物を、揚羽は知らなかった。
年配の、身なりも普通の男性。
乾という人に言われて、そう説明して会釈した男性を、揚羽はとりあえず応接室に通した。

「あの、失礼ですがどのような…」
「私は大戦中に陸軍歩兵部隊に配属されていた者で、名前を高橋といいます。貴女のお父様には、随分お世話になりました」
「…え、」

はっとした。
戦争に行ったっきり、消息のわからなかった父を知る人など、現れないと思っていた。
死んでいるのか生きているのかもわからない人、そこには僅かな期待もあった。

「乾って、乾さんが貴方を探したんですか?」
「そうですね。知り合い経由で連絡を頂いて」

そう言いながら、その人は何枚かの揚羽の父の写真を見せてくれた。
古ぼけた写真の中で軍服を着て嗤う男性、紛れも無く父だった。

「…父は、やはり亡くなったんですか?」
「はい。私の目の前で」

その言葉は聞くまでも無く、心の何処かで覚悟していた。
しかしそれを聞いたおかげで、胸のつかえが取れた気がした。

「そうですか…」


午前の診療が終わり、揚羽が待合室を覗くと、そこに紫煙を燻らせる上背のある姿があった。

「此処、禁煙なんですけど?」
「悪いな、今消すからよ」

そう言って、その人は携帯灰皿を取り出して、吸っていた煙草を捨てた。
特徴的な、銃の形の頭。
普通なら驚く風貌だが、彼の内面がとんだ見掛け倒しである事を知ってしまっている揚羽は、もう彼の顔に恐れを抱く事は無くなった。

「乾さん、父の最期を聞きました。どうやって、あの人を探したんですか?」
「戦時中のツテを、ちょっとな」

何でも無いふうに言ってはいるが、戦争時代の人脈を辿るのは大変だっただろう。

「おかげですっきりしました。ありがとうございました」
「…お節介かと思ったんだがな。事実を知らねぇ事には、何の選択も出来ねぇだろう?」
「はい…」

乾の言葉に、目頭がつんと熱くなる。
思わず手の甲で涙を拭って、ふと乾が手持ち無沙汰である事に気付く。

「コーヒーで良ければお出ししますね」
「ああ、悪いな」

揚羽はキッチンへ行き、先日行き付けのコーヒー店で買った、ちょっとだけ高い豆を用意した。
挽き立ての豆にお湯を注ぐと、芳醇な匂いが立ち上る。
マグカップを二つ用意して、二人分のコーヒーをトレイに乗せて揚羽は戻る。

「どうぞ。砂糖とミルクは?」
「いやいい…、」

揚羽が淹れたコーヒーを一口飲むや、乾がぱっと顔を上げる。

「…美味いな。何処の銘柄だ?」
「うーん…、内緒です。私、実はちょっとコーヒーにはうるさいんですよ。また飲みたかったら、是非いらっしゃってください」

そう言った揚羽に、乾はガシガシと頭を掻きながら、小さくぼやく。

「…コーヒー目当てに、通っちまいそうじゃねえか」



chapter1 完

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