before this story

「彼女は一週間前まで、重度のパーキンソン病により、日常生活すらままならなかった。それが拡張処理で神経伝達の加減を変える事により、見給え。別人のような姿を」

教授の視線が指す方向、快活な笑顔を浮かべながら象棋を指す女性が居る。
パーキンソン病は本来、神経伝達物質が過剰に放出される事により不随意運動が出現し、日常生活動作が困難になる疾患である。
従来処方されるL-ドパ、レボドパといった薬は、この神経伝達物質の過剰放出を抑える事で症状の改善を図る。
しかしこれには深刻な副作用があり、患者は神経伝達物質の放出と休止の間で動と無動の状態を繰り返す。
根本的治療には程遠い…以前までは。

「いずれはALSや重症筋無力症といった疾患が治療可能になるかもしれない。この世から不治の病は無くなるんだ」

そう語る教授の言葉を聞きながら、揚羽はガラスの向こうで嗤う女性を眺めた。
元々戦時中の兵器開発で発展した拡張処理が、医学の分野に転用されるなんて皮肉な話である。
命を奪う技術が、人を救う技術へと…

(その為に犠牲になった人たちを、誰も知らない…)

拡張技術が発展したのは、戦時中の多大な犠牲と献体贈与があったからだ。
それを思えば素直に喜べず、このまま教授の下で拡張医学に進む事に揚羽は抵抗を感じていた。
誰の犠牲があったとしても、医学は前に進まなければならない。
わかっている、筈なのに…

「揚羽くん、君に任せたい患者がいるんだよ」

教授にそう言われ、揚羽ははっとした。
カレッジを卒業し三年。
揚羽は前期研修医を経て、今は拡張者専用病棟で働いている。
臨床医となり多くの技術や知識を学んだが、やはり今後の希望は変わっていない。
故郷に帰り父の遺した診療所を引き継ぐ…その旨は教授に伝えてあるし、そうするべきだと思う。

「教授、私はもうすぐ此処を辞める人間です。今新患を持っても途中で担当医が変わる事になりますし、患者さんにとっても良く無いのでは…」
「その事なんだが、此処に残るつもりは無いかね?」

そう聞かれ、揚羽は瞠目した。
教授は構わず一冊のカルテを差し出すと、話を進める。

「患者は二十五歳男性、交通外傷による頚椎断裂によりC5-C6の脊髄損傷、首から下がほぼ完全麻痺。患者たっての希望で、明日当院に転院してくる。私が下した治療方針は代替脊椎の移植…おそらく十時間を超える、大掛かりなオペになる。君にこの患者の主治医と、オペの第一助手を任せたい」
「…私に、ですか? ですが、私は脊椎移植をやった事は…」
「執刀医は私だ。間近で技術を学ぶ滅多に無いチャンスだと思うが、興味は無いかね?」

そこまで聞いて、揚羽の心は揺れた。
代替脊椎移植の技術を学ぶ事が出来れば、この先診療所で救える患者が増えるかもしれない。
揚羽が退職するまで、あと一月半…
カルテによると、代替脊椎移植術は一週間後に予定されている。
術後の経過も十分診られるし、教授の言う通り、これはまたと無いチャンスかもしれない。
そう思った時、揚羽は後の事は余り考えずに返事を返していた。

「…やります、やらせてください!」
「わかった。術式の予習は無論だがやって置くように」
「はい」

それから手術までの一週間、患者の受け入れと術前検査、手術チームでの度重なるカンファレンスと、代替脊椎の拒絶反応を抑える為の免疫療法、栄養管理…
目まぐるしく日々は過ぎ、恋人への連絡すら忘れていた。

「揚羽!」

医局へ戻る途中、階段を登っている時に不意に呼び掛けられて、揚羽は立ち止まる。
白衣を翻しながら現れたのは、揚羽の恋人であるアレックス…カレッジからの付き合いで、そろそろ四年になるか。
互いに研修医で忙しく、結婚の約束も疎かに、関係はずるずる続いていた。

「どうしたの?」
「どうしたじゃ無いだろう、電話にも出ないで…。お前、デカい手術任されたそいだな。どんな手を使ったんだよ!?」
「…」

そういう話か。
揚羽は疲れからげんなりとアレックスを見ると、溜息を一つ落とした。

「別に、努力が報われただけよ。悪いけど忙しいの。もう良いかしら?」
「おい、待てよ…!」

歩き出そうとしたところ、肩を掴まれる。

「…何?」
「その手術、辞退しろ!」
「何で、」
「お前が辞退すれば俺に回ってくるかもしれないだろ!!」

そう言ったアレックスに揚羽は一瞬驚いて、それから呆れ返って彼を見た。

「何を言っているの? 私が辞退したからって、貴方にお役が回って来るかどうかなんてわからないじゃない」
「お前は、いつもそうやって俺を馬鹿にして…」
「…馬鹿になんてしていないわ。少し冷静になったらどうなの?」

なんて幼稚な考えなのか。
話にならないと、彼を振り解いて立ち去ろうとした揚羽だったが、ぐいと後ろへ引かれてバランスを崩した。

「…!」

手摺を掴もうとして、揚羽の手は宙を掻く。
狼狽えるアレックスの顔が真正面に見えた時、揚羽の身体は階下へ転がっていった。


**

階段から転落し、そのまま意識を失った揚羽が目を覚ましたのは、勤務する病院のベッドの上だった。
頭や背中はずきずきと痛むし、右手は包帯にぐるぐる巻きにされ、三角巾の中。
指の感覚がある事にほっとしつつ、手首に走った激痛に揚羽は顔を顰めた。

「目が覚めたかね」

そう言って現れた教授に、揚羽は疲れ切った視線を向ける。

「私は、」
「君を階段から突き落としたアレックス君は、病院を解雇になった。君に手術を下りろと難癖付けているところを、看護師が見ていたんだ。被害届を出すなら、好きにしなさい」
「…」
「それから、君の怪我に関しては、頭を打ってはいるがCT上問題無し。右手は捻挫だ。だが二日後の手術には参加させられない」
「わかっています…」

揚羽は左手の拳をぎゅっと握る。
ここまであらゆる準備をしてきた。
それが、たった一瞬で崩れてしまった。

「残念だが、またチャンスは…」
「チャンスなんて、私には…!」

思わずそう口走ってしまってから、揚羽ははっと口を噤んだ。

「…すみません」
「君の患者だ。手術は、幾らでも見学しなさい」
「…、はい」

自分は教授の期待を裏切ったのだ、そう思った。
教授が労うように揚羽の肩を叩いて、病室を去って行く。
それから二日後、予定通り手術が開始された。
手術室まで患者を見送り、揚羽は手術室の外から、手術を見ていた。


二ヶ月後…、
病院を辞めてから開業の為、故郷に戻った揚羽は近隣の路地を歩いていた。
右手の捻挫も随分と良くなり、アレックスとも連絡を取り合う事も無かった。
散々考えたが、被害届を出すのは止めた。
今更争ったところで意味が無いと思ったのと、このままアレックスとずるずると関係を続けるようで、単に面倒だと思った。
故郷に戻ったのは、父が生きていた頃以来だから何時ぶりだろうか。
記憶を確かめるように方々を見て歩いていた時、不意に轟いた爆発音に、身を竦ませる。
誰かが悲鳴を上げ、数メートル先に粉塵が舞っている。

「テロだっ!」
「助けて…!!」

世間では、反拡張処理を掲げるスピッツベルゲンのテロが連日報道されている。
これもその関連なのだろうか。
揚羽が助けを呼ぶ声に竦んだ身体を懸命に動かし駆け付けると、崩れた瓦礫の下に挟まっている人が見えた。
思わず駆け寄ろうとした揚羽を、集まって居た野次馬の一人が止める。

「おい、あんた…、崩落の危険がある。近付いちゃいけない」
「私は医者です!」

肩を掴んで引き戻そうとする男性の腕を振り払い、揚羽は瓦礫に近寄った。
上半身だけかろうじて埋もれていない女性には、まだ息がある。

「痛い…助けて…」
「痛いのは何処?」
「…っ、胸…」
「…、誰か手を貸して! この人、生きてるわ!!」

揚羽が渾身の声で叫ぶも、野次馬たちは怖がって近付いて来ない。
瓦礫に挟まった下半身の状態はわからず、瓦礫が何時崩れるかもわからない状況では怪我の程度も把握が難しい。

「誰か、お願い…助けて…っ、」

再び揚羽が叫んだ時、突然目の前で茶色のコートがはためいた。

「手を貸すぜ」

そう言って、何の躊躇も無く瓦礫の隙間に潜り込んだのは、特徴的な風体の拡張者だった。
女性の下半身を押し潰していた瓦礫が、呆気ない程簡単に持ち上がる。
間一髪瓦礫の下から女性を引き摺り出して、揚羽は彼女の怪我の具合を確かめた。
足は折れているだろう。
肋骨も折れて、気胸を起こしているかもしれない。
早急に処置をしなければ命が危ない。
揚羽が女性の脈や呼吸を診る間、遠くの方から救急車のサイレンの音が近付いて来るのが聞こえた。
どうやら誰かが通報してくれたらしい。

「ありがとうございました…、」

ほっと胸を撫で下ろしながら揚羽が振り返った時、助けてくれた拡張者の姿は何処にも見えなかった。
揚羽は、ちらりと一瞥しただけの拡張者の風貌を思い出す。
人に為らざるその頭は、銃だった。

『手を貸すぜ』

そう言って颯爽と危険の中飛び込んで行った背中は、開業と患者の診療との忙しい日々の中、次第に記憶の片隅に埋もれていった。
やがて銃頭の拡張者の存在など忘れていた揚羽が、メアリーの紹介で乾十三の事務所を訪ねるのは、また暫く後の話である。

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