第十話
彼女に手を伸ばす。
危険な目に合わせない為、一度は遠ざけた揚羽がスタジアムに居るのを見付けた時、十三は呼吸がそのまま止まる程の動悸を覚えた。
しかし、
『来ないで…っ、』
拒絶を多分に含んだ目で見ながら、彼女が言った。
覚悟していた筈だった。
奇異な目で見られたり、恐怖される事には慣れている筈だった。
だが、好いた女に拒絶されるのは酷く堪えた。
「はぁ…」
思わず溜息が零れる。
病院でセブンの射手に会った後、十三は座り込んで項垂れた。
急に現実に、日常に引き戻される。
これからどうすれば良いのか。
揚羽の為だなんて、詭弁だった。
巻き込む事を恐れて、向き合う事を放棄し、逃げを選んだのは自分だ。
だが、本当にこのままで良いのだろうか。
十三は頭を悩ませながら、病院では吸えなかった煙草に火を付ける。
「迎えに来たぞ、十三。帰りが遅いから、クリスが心配していたぞ」
振り返ると鉄朗と、事務所の下の診察室で怪我人と揚羽を診ている筈のメアリーが居た。
「揚羽さんが、さっき目覚めましたよ。スピッツベルゲンの人を診察してくれて、もう帰るからって、事務所を出られたんすけど…」
「そうか、」
ならば十三が戻る頃に彼女は事務所に居ないだろうが、顔を合わせる覚悟がまだ無いから、丁度良い。
ベリューレンもスピッツベルゲンも、昨日の今日で目立つ動きはしないだろう。
町のゴロツキ達も、まだ日の高い時間だ。
特別治安の悪い路地を通らなければ、平気だろう。
そう考えながらメアリーの報告を冷静に聞いていた十三は、次のメアリーの言葉で態度を一変させる事になる。
「EMSのクローネン…? とかいう眼鏡の人が突然現れて、揚羽さんを連れて行ったっすよ…」
これはどういう事だろう。
揚羽は目の前の状況に理解が及ばず、狼狽える。
十三の事務所の前で、突然現れたクローネンに車に乗せられて、途中寄ったブティックでドレスを着せられ化粧を施され。
今は割とお高めなレストランの一席に、クローネンと向かい合って座っている。
「あの…どうして、貴方と食事…?」
目の前に並べられる食事は見た目も味も豪華で、ワインも美味しい。
しかし相手がクローネンというのが、どうにも引っ掛かる。
意図がわからず困惑する揚羽に、クローネンがワインを口にしながら言う。
「情報の見返りを貰うと言っただろう」
「見返りって、これがですか…?」
ドレスも化粧品もクローネンのポケットマネーから出したようだし、一緒に食事をして彼に何の得があるのだろう。
もしかして、ご馳走様しろということだろうか。
「…申し訳ありませんが、今手持ちは余り…だから、食事の代金は後日で宜しいでしょうか?」
「何を言っている。俺が誘ったんだ。出すに決まっているだろう」
「え、では…」
一体何故?
本気で首を傾げる揚羽に、クローネンは僅かに不愉快げに眉根を寄せる。
「俺はお前を好ましいと思っている」
「…え、」
それは、どういう意味か。
そう揚羽が聞こうとした時、何やら店の入口の方が騒がしい。
思わずそちらへ視線を向けた揚羽の目に飛び込んで来たのは、特徴的な銃頭。
「十三、さん…?」
揚羽が瞠目した瞬間、クローネンから聞こえてくる、盛大な舌打ち。
「…相変わらず間の悪い男だ。折角出し抜いてやろうと思っていたのに」
そうぼやくクローネンの存在に気付き、十三がつかつかと揚羽らの居るテーブルに近付いて来る。
十三の姿を見て、客らが恐れ戦き席を立った。
「見つけたぜ、クローネン、この野郎! オリビエに聞いたら揚羽を連行しろなんて指示は出していないときたもんだ…って、揚羽、その格好…」
着飾った揚羽の姿を見て、十三が固まった。
「見てわからんか、乾。デート中だ、邪魔するな」
「な…、何!?」
「別にデートじゃありませんっ」
ドレスにハイヒール、華やかな化粧で否定しても説得力は無いだろう。
クローネンの言葉が、本気か冗談かもわからない。
思い切り狼狽える十三を前に、揚羽は昨夜の十三の姿を思い出し、幾分か冷静さを取り戻す。
知りたかった。
十三の過去を、遠ざけられた理由を。
しかし、いざ知ったら怖かった。
身勝手な事に、知りたくなかったとも思った。
『来ないで…っ、』
自分は十三に酷い態度を取った。
嫌われる事、恐れられる事が慣れているだなんて、きっと嘘。
優しい彼の事…そう言って他人を責めもせず自分を諦める度に、幾度その心に傷を抱え込んで生きて来たのだろう。
そして、揚羽も彼を傷付けた。
本当はもう、十三の傍に居るべきではないのかもしれない。
自分が彼の枷になるのなら。
彼が揚羽を望まないのなら。
ただ、最後に十三の口から、考えを聞いてみたいとも思った。
「私を突き放したのは貴方じゃないですか。私に、一体何の用ですか?」
そう真っ直ぐ見詰めながら聞いた揚羽に、十三は僅かに怯む。
しかしぐっと拳を握ると、十三は口を開いた。
「揚羽…、俺はお前が好きだ。お前が好きだから、大切だから、俺の事情に巻き込んじゃならねぇと思った。だが、それはお前の意志を無視した、自分勝手なエゴだった」
そこまで言って、十三は考えあぐねるように自らの後頭部を掻いた。