第四話

『話がある』

クリスティーナのカレーを食べた、その二日後、十三に言われ、夕方会うつもりだった。
しかし往診の時間が予定より遅れ、時刻は既に八時。
どっぷり日が落ちた道を、揚羽は十三の事務所へと早足で急ぐ。

コツ…

不意に後ろから、足音が聞こえた気がした。
始めはたまたま方向が同じ人がいるのだろうと、気にはしなかった。
だが、

コツ…コツ…

再度、今度は先程より近くから聞こえた複数の足音に、揚羽は嫌な感覚を覚える。
そっと後ろを振り返ると、大きな黒い影が見えた。
誰かが居る。
たまたま方向が同じだけ?
それとも、尾行されている?

(どうしよう…)

揚羽は歩調を速め、後ろに居る何者かと少しでも距離を取ろうと歩く。
不意に、肩を掴まれ…

「…!?」

振り返りもせず、揚羽は走り出す。
「逃げたぞ、追え!」そんな声が後ろから聞こえたが、揚羽は脇目も振らず、暗い路地を必死に走る。
もしも相手が拡張者であったなら、そして足の拡張をしていたなら、いくら逃げても逃げきれない。

「…はぁ、は…っ、」

近くに飲食店も、交番も無い。
民家に助けを求めても、きっと家人が気付く前に捕まってしまう。
どうしよう、

(十三さん…っ、)

今、彼が居たなら。
この場に居ない男に助けを求めながら、縺れそうな足を必死に動かして、揚羽は逃げる。
しかし、遂に路地のコンクリートの凹凸に躓いて転んでしまった。

「…いっ、」

ストッキングが裂けて、咄嗟に地面に付いた両手に鋭い痛みを覚える。
すぐには起き上がれない揚羽の後ろに迫る、数人の気配。

「鬼ごっこは終わりか?」
「コイツで間違いないよなぁ」

恐る恐る振り返ると、下卑た嗤いを浮かべながら揚羽を見下ろす、三人の男達が居た。
全員何かしらの拡張処理をしているらしく、顔貌が異形な者もいる。
揚羽は青ざめ、地面にへたりこんだまま後退る。

「…っ、貴方たち、私に何の用ですか…?」
「あんただろう、乾の女って」
「乾の、女…?」

乾とは、十三の事だろうか。
十三とは付き合ってなどいない。
そうなれば良いとは思うが、残念ながら「乾の女」と呼ばれる存在は揚羽では無い。

「私は、違います…」
「違わない。一昨日一緒に居るのを見たからな。乾に抱かれていただろう」

昨日といえば、クリスティーナに言われて十三と買い物に行った時の事だろう。
それにしても「抱かれていた」なんて、語弊がある言い方をしないで貰いたい。
揚羽は抱かれていたのでは無い。
荷物と一緒に抱えられていたのだ。
その時の事を言われているなら、間違い無く一緒に居たのは揚羽だが、狙われる理由がわからない。

「…だったら、何だと言うのですか?」
「あんたに恨みはないけどよ。乾にはでかい顔されて、俺ら苛々してんだわ。なあ?」
「ああ、指の一本でも切り落として、乾の野郎に送ってやるか?」
「…っ、」

物騒な台詞を吐いた後、一人が揚羽に向かい手を伸ばす。
もう駄目だ、捕まってしまう…
揚羽が思わず目を伏せた、その時だ。

「なっ!?」
「か、身体が…」

困惑した、声。
揚羽が恐る恐る目を開く、その前で、襲撃者たちが硬直していた。

「…貴様ら、女一人相手に卑怯だと思わんのか、下郎ども。暴行未遂の現行犯で、連行する」

不意に暗闇の中から現れた男が言った。
警備局の職員か、何かだろうか。
眼鏡の奥の鋭い視線が拡張者たちを睥睨し、それから揚羽に向けられる。

「大丈夫か?」
「…はい。でも、何が、」

揚羽は眼前で硬直したままの襲撃者たちを見遣る。
男が現れてから、彼らは引き攣ったような不自然な動きのままだ。

「俺の針の力で神経系の流れを変えた。此奴らは俺の針を抜くまで動けんし、既にEMSには通報済みだ」
「…ありがとうございます」

男に支えられ、揚羽は立ち上がった。
膝から血が出ているのと、両手の掌に擦過傷が出来ているが、それ以外に目立った外傷は無い。
揚羽は男が差し出したハンカチを有難く借りて、膝の傷に当てる。

「だが、女が一人でこの時間に出歩くのは考え物だな。恋人は迎えに来てくれないのか?」
「…いません、恋人なんて」
「そうか。ならば俺が送ろう」

それから程なくEMSが到着し、揚羽を襲った拡張者たちは連行された。
揚羽は簡単な手当を受けた後、クローネンと名乗った男の車で乾の事務所まで送って貰う事となった。
住所を告げ、車が事務所の前の路地に止まった時、クローネンが不可解げな声を発した。

「…まさか、此処が自宅か?」
「自宅ではないのですが、信頼出来る知人が此処に居るので」

あんな事があった後で、一人で家に居るのが不安だった。
今夜はメアリーの所に泊めて貰おうと考えた揚羽に対し、クローネンは何やら難しい顔をしている。

「あの…」
「いや、何でも無い」
「…?」

何だろうと疑問に思いながら、揚羽はクローネンに礼を言い車を下りた。

「もう、此処で大丈夫ですので。お借りしたハンカチの事もありますし、後日改めてお礼をさせて頂けないでしょうか?」
「礼など良い。それより、俺は中に居る奴に一言言ってやらねば気が済まん」
「え…」

同じく車を下りたクローネンが、つかつかと乾の事務所へ向かう。
一体どういう事か、揚羽は皆目見当も付かない。
慌ててクローネンの後に続きながら、揚羽は事務所の入口を潜った。

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