5月のある雨の日
雨が、降っている。
先が見えないくらい激しい雨。雨宿りをする場所も見つからなくて、どうしたらいいのかわからなくて、ただ立ち尽くしていた。
ざあざあと激しく降り続く音以外なにも聞こえない。どっちへ歩けば太陽が見えるのかもわからない。ひとりぼっちで、ただ、立ち尽くしていた。
(…変な夢だったな)
よくわからない夢を見たせいで熟睡できた気がしない。なんとなく疲れている頭を動かして、どんよりとした空を見上げた。夢の中のように雨は降っていないけれど、今にも降り出してきそうな暗い空。この窓際の席は気に入っているけれどこんな日は嫌だ。
カナル式のイヤホンから流れる音楽は、教室の喧騒から私を心地よく連れ出してくれていた。クラスメイトの話し声はさわさわと聞こえる程度で、話の内容まではわからない。これがちょうどいい。私は、離れていたい。
黒板の上の時計を見れば先生が入ってくるまでにまだ少し時間があった。朝礼まで寝よう、かな。変な夢のせいで眠い。
机に両腕を組んで頭を載せる。窓の方を向いたとき、窓ガラスに点々と滴が走った。
(う、わあ…)
すぐにざあっと勢いよく降り始める雨。嫌だなあ、雨は嫌いなんだ。
うんざりとして目を閉じる。ただでさえ憂鬱な学校が、雨の日は更に嫌になる。今日は1日中寝ていよう。そして私は眠りに落ちてゆく、はずだったのに。
「どわーっ!つめてー!」
イヤホンをすり抜けて耳に飛び込んできた声。それに続いて、クラスメイトたちの悲鳴まじりの笑い声が響いた。うるさいなあ…。
何事かとイヤホンを外して頭を上げると、教室の扉の前にびしょ濡れの三人が立っていた。田島くん、三橋くん、泉くん。…野球部か。
さみー!と言いながら犬のようにぷるぷると頭を振っている田島くん。その周りの男子は「田島ヤメロー!濡れる!」と笑っていた。その横でなぜか泥んこの三橋くんは困ったようにオロオロとしていて、泉くんは不機嫌そうに濡れたパーカーを脱いでいる。そんな三人に近づいていくのは、えっと、浜田くん。自分のタオルを渡しに行ったらしい。三橋くんの格好に驚いた声をあげて「三橋ジャージ持ってる?ないなら俺の貸すけど!」と世話を焼きはじめた。あの人って、見てるとなんだかお母さんみたいなんだよな。
何はともあれ、大したことじゃなかった。寝よう。そう思い直してもう一度腕に頭を預ける。クラスメイトたちはびしょ濡れの三人にまだ笑っているようだった。
なにがそんなに楽しいんだか。ばっかみたい。みんなみんな、うるさい。
「、っ!?」
突然ぽたりと頬に落ちた冷たさに、びっくりして目を開く。思わず頭を上げると、机の前に泉くんが立っていた。
「あ、わり!水飛んだ?」
頬に指を当てると、泉くんが私を見て目を丸くした。ぽたぽたと雫を落とす髪にタオルを被って、手にはびしょ濡れのパーカーを持っている。
「服、ここかけといていい?」
「あ、うん…」
泉くんはパーカーを窓の手すりにかけたあと、自分の席に座った。彼の席は私の右隣である。泉くんはガシガシと乱暴に髪を拭いて、不満げな声をあげた。
「朝練から戻る途中でいきなり降ってくんだぜー」
え、っと…。これはもしかして、もしかしなくても、私に話しかけて、る?
「天気予報見てなかったから傘持ってなくてさ、田島と三橋も持ってなくて三人でダッシュしてきた。ら、三橋のやつコケてさ」
で、あんな泥だらけなんだよ。アベに見られたら怒られそうでひやひやしたぜー
そう続ける泉くんの話はあまり頭に入ってこなくて、私はただぽかんとして彼の声を聞いていた。泉くんが私に普通に話していることが信じられなかった。だって私、高校に入ってからゴールデンウィーク明けの今日まで一ヶ月間、まともに誰とも会話してなくて、それは隣の席の泉くんも同じで。みんなを避けて生活してきたからみんなも私には一線引いてて、私はそれが都合良くて、そうやって過ごしてきたのに。
どうして泉くんは今、私に普通に話しかけてきたんだろう?まるでそれが当たり前のことみたいに、何の違和感もなく、話してる。
「…? 草壁?」
名前を呼ばれてはっとした。それから名前を呼ばれたことに驚いた。
どうして?どうしてどうして。積もった疑問は不安と同じだ。そして自分を守るように、苛立ちに変わる。
「な、んで?」
抑えきれなかった言葉が、コロリと机に落ちた。泉くんはきょとんとした顔で私を見る。
「なに?」
「なんで… 私に、話すの…」
失礼なことを言っているんだろうなあ、と思った。でも私は怖いのだ。突然踏み込んでこないで。私は1人でいたいの。私にとって泉くんに話しかけられることは、当たり前じゃない、普通じゃないんだよ。
「…だって、隣の席じゃん」
いつのまにか俯いていたようだ。頭の上から降ってきた泉くんの声に、肩がぴくりと跳ねた。私の顔を覗き込むように机に顔を近づける泉くん。そろそろと視線を上げると、少し拗ねたような、困ったような表情の彼と目が合った。
「隣の席なのに全然話してなくて、それってオカシイよなって思ってた。隣の席の奴と話すのって、普通じゃねぇ?」
その言葉に頬がカアッと熱くなるのを感じた。恥ずかしいのと、怒りと。半々くらい。
「わ、私は普通じゃない…」
話したくないの。周りと関わりたくないの。嫌なの。離れていたいの。そうやってみんなを避けてきたのに…私にとって普通じゃない「普通」に私を巻き込まないでほしい。
私の微かに震える声に気持ちを察したのか、泉くんは宥めるように落ち着いた声を返してきた。
「わかった、ごめんな」
その言葉にほっとした。よかった、わかってくれた。もしかしたら泉くんには嫌われたのかもしれないけど、それくらいが都合いい。本当は「どうでもいい存在」っていうのが一番いいけれど、関わりを持たないならば、なんでも、
「…でも俺は、草壁と話したいんだけど」
一瞬、思考が止まった。
泉くんはなにを言っているんだろう…?聞こえた言葉に耳を疑って、もう一度意味を考えた。よくわからないよ泉くん。私は関わらないでほしいって言ってるのに。
「隣の席だから話すんじゃなくて、草壁だから話す。それならいい?」
いいだろ?と言っているような声色に思わず頷いてしまった。泉くんは満足そうにニッと笑う。
…なんだかよくわからないうちに丸め込まれてしまった…。おかしいな。私の高校生活はこんなつもりじゃなかったのに。入学して1ヶ月で、既に予定が狂った。
でもきっとなんとかなるよね。今まで通りにしていれば、きっと大丈夫。
少しの不安を抱えつつ、雨が和らいだ空を見上げた。
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