泉先生


「せんせー、好き」


私の吐き出した言葉に、泉先生は困ったように眉を顰めた。でももう黙っていられなかった。先生、ごめんなさい。こんな悪い生徒で。


「なんて。ジョーダンです」


逃げ出したくなって誤魔化そうとすると、泉先生は伏せていた目をゆるりとこちらに向けた。視線が絡まって、どきりと胸が鳴る。作った笑顔が溶けるように消える。
好き。好きです。ずっと好きでした。喉の奥がぎゅうぎゅうと締まるような感覚がして苦しい。見つめ合うだけでこんなにも、好きだという感情が溢れ出す。もうとっくに限界だった。


「…んな顔してるくせに冗談なのかよ?」


ちょうど教室を出ようとしていた泉先生は、ドアの前で立ち止まったまま笑った。そして開けかけていた扉を後ろ手に閉める。カタンという小さな音が、夕暮れの教室に大袈裟に響いた。
泉先生が歩み寄って来る。おずおずと先生を見上げると、ふうと溜息を吐かれてしまった。


「それとも冗談だって思った方がいいか?」
「っ…… お、おもわないで」


はー。今度は長い溜息に、目の奥が熱くなった。困ってる。私が困らせている。泉先生、ごめんなさい。私だって、先生の良い生徒でいようって努力はしたんです。
泉先生はがしがしと首の後ろを掻くと、すこし首を傾けて私を見た。様子を窺っているような仕草と、斜め下から覗き込んでくるような視線に、身体が硬直してしまう。思わず目を逸らすと、先生はふっと笑った。


「なにお前、顔真っ赤」
「ゆ、夕日です」
「ぶはっ」
「…!!」


噴き出されたことに驚いて顔を上げると、泉先生は口元を手で覆ってくっくっと肩を揺らしていた。「なにその常套句。はずかしーんだけど」「笑わないでください…」泉先生はちらりとこちらを見ると、私の手首を掴んで引っ張った。その弾みで、私は床にぺたりと座り込むことになってしまった。


「え、なに、」
「窓から見えたらマズイから」
「え」


ふっと視界に影が落ちて、あっという間に泉先生の顔が間近にあった。びっくりしすぎて動けなくて、咄嗟に目をぎゅうと閉じる。反射的にそうしたけれど、少し経っても予想したようなことにはならず、恐る恐る目を開けると泉先生の顔は変わらぬ距離にあった。でも、泉先生の睫毛の一本一本が見える。誰かの瞳の奥をこんなにも見つめたのは、はじめてだった。


「…俺と付き合いたいの?」
「え、」
「好きってそうゆーこと?」
「っ、は、い」
「俺とこうゆーことできんの?」
「できます」
「嘘つけ。怖がったくせに」
「い、いきなりだったら誰でも驚きます!」


はいはい、と言う泉先生の表情はもう、いつもの顔だった。授業中の顔。廊下ですれ違うときの顔。「先生」の顔。さっきまで私に向けられていた視線は、もう消えてしまっていた。


「せんせい、は、ずるい」


絞り出した声は涙で滲んでいて、自分でぎょっとした。そして自分が嫌になった。なんでここで、泣いてしまうのだ。こんなの、駄々をこねている子供みたいじゃないか。


「どうして、試すようなことばっかり……。信じてよ。好きって、本当に、好きなんだから」


ぐわりと視界が歪んで、泉先生の表情がわからなくなった。泣いてしまえばきっと、先生の顔は見えるけれど、でも絶対に涙を落としたくなかった。このまま耐えてやる。泣いて逃げ出しでもしたら、終わってしまう。
上を向いて、伸ばした袖を目に当てた。そうして湧き出た涙を吸わせる。馬鹿みたいな努力だけど、こうしてしかプライドを保てない。


「…触るけどいい?」


ふいに泉先生が呟いて、ほぼ同時に頬に手のひらが添えられた。ふんわりとあたたかくて、厚い手のひら。それは私の頬にぴったりと馴染んで、なんだかすごく気持ち良くて、思わず擦り寄るように頬を預けると泉先生が小さく息を吐いた音が聞こえた。目を向けると、視線が絡まる。


「…私、まだいいって言ってないんですけど」
「お前、素直なのかそうじゃないのかどっちだよ」
「ふふ」


あ。笑った拍子に、涙がぽろっと落ちた。あーあ。ちいさな粒が頬を伝うのがわかる。きっと泉先生の手も濡らしてしまっていることだろう。涙が溢れるのと同時に、諦めのような感情が身体にどんどん広がっていくのがわかった。解放されてスッキリしたような、でもどんどん身体が重たくなっていくような、そんな気持ち。はー、と息を吐くと、もう自分では身体を支えるのが億劫になって、背後の壁にぐったりと凭れた。


「もー大丈夫です」
「なにが」
「迷惑かけてすみませんでした、先生」


この緊張にもう耐えられそうになかった。それに、これ以上恥ずかしい思いをしたくない、先生に情けない姿を見せたくなかった。もう戻れないけれど、逃げ切ることならきっとできる。卒業するまで、あと一年間。


「先に帰ってもらっていいです、か、」


言葉の終わりは泉先生の唇によって塞がれた。え。え?


「ん、ぅ」
「………」


二、三度、合わせられた唇は、小さな音を立てて離れた。なにが起こったのか、理解しているのに頭がそれを認めない。もう、心臓は壊れてしまいそうで、涙はますます瞳を覆った。


「…こうゆーことするってことだけど、できんの?」


いつの間にか、泉先生の目は「先生」の色をしていなかった。そのカオに、私の心臓は更に音を立てる。


「だ、だから、先生、ずるいです。こんな…の、忘れられなくなるどころか、もっと好きになっちゃうよ、」
「…お前が勝手に諦めようとしてっから」
「え?」
「自己完結すんな、馬鹿」


その言葉と同時に、先生に抱きすくめられる。去年、泉先生に出会ってすぐに好きになって、そんな頃は、こんな風になるだなんて思ってもみなかった。今日までずっと、失恋する準備をしていたように思う。諦められることを、ずっと求めていた。嬉しいことやドキドキすることは何回もあったけれど、絶対に期待はしないって決めていたし、そもそもそんなことできなかった。それなのに。今、いつもの教室で、こんな風に泉先生の腕の中にいるだなんて。


「…も、もう駄目。ドキドキしすぎて死ぬかも…」
「…ずるいのはお前も一緒だからな」
「え、」
「確かに、試すようなことばっかり言って悪かった。けど、お前のそういう発言とか、表情とか、すげぇ煽ってくんのに同じくらいに後ろめたくさせんの。わかる?」
「わ、わかんないです…」
「…子ども」
「っ、な!」


泉先生は私の肩に顎をのせると、うーんと呻いた。


「新任なのに教師生命終わるかもなー。お前のせいだわー。まぁ卒業までバレないようにお互い頑張ろうぜ」
「え、え。あの」


それってつまり。


「おー。今日からせんせーがお前の彼氏な」
「!!!!!」


好きで、好きで、好きで。もうとっくに限界だったから。もう自分の気持ちを終わらせようって思っていたから。だからこんなのは想定外で、なんて言ったらいいのかわからなくて。よろしくお願いします、だなんてありきたりな返事に、泉先生は少年みたいな顔で笑った。




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