「…………引いた、じゃろ」

さてどうしようか、と思っていたところに仁王の声が響く。
包帯が巻かれた手首を右手できゅ、と抑えながら、視線をゆらゆらと迷わせている。

静かな部室に隠れるように発せられたその小さな声。俺は返事ができず、仁王を見つめるしかなかった。

引いた、という表現が。
どうにも飲み込みきれない。
これは幻滅や失望、といった類のものでは無いのだ。もっと、何か、違う。…そんなんじゃない。

「…引く、って感じじゃないな」
「じゃあ何……。気持ち悪い、とか?…あ、不潔?もしかして下品だとでも思った?それとも……」
「もういい。…やめろよ」

笑えていない目を伏せて次々と自分を貶める仁王があまりにも儚くて。

「もう、何も言うなよ」

そう言ったか言わないか、自分でも分からないくらいのタイミングで、俺は仁王の唇に自分のそれを押し付けていた。


「んっ、……!」

小さく呻く仁王の首の後ろに右手を回し引き寄せ、そのまま左手も回して仁王の尻尾を捕らえると静かにそれを撫でる。
抵抗しそうでしない仁王の右腕は俺の胸元に落ち着いたらしく、そのまま俺のユニフォームを握りしめている。

ただ押し当てるだけのそれは実質10秒にも満たないものだったが、俺にはそれが1分にも2分にも感じて、何故なのか頭が真っ白だった。
とにかく仁王の口を塞ぎたかった。何も言わせたくなかった。本当にただそれだけの感情で動いてしまったのだ。

血色が悪く常に温度が低いと思っていた唇は、思っていたよりも温もりがあった。

ゆっくりと唇を離すと、仁王の視線は不安げに揺れていながらもどこか諦めのようなものを纏っているように見えて。
それを視認した瞬間。俺の真っ白だった脳内に、黒い何かが割り込んでくるような、そんな感覚に襲われる。なんだ、これは。

よく分からないながらも、一つ言い切れる。
とてもじゃないが仁王のそんな瞳は受け入れられない。


「…俺とのキスも、“甘受”か?」
「……な、にが……」

カラーコンタクトの嵌められた仁王の目は、傍目からも分かるほどに揺れている。

「お前は誰のことも、“容認”したりしない。…赤也も俺も、きっと他のやつだって、“甘受”するだけなんだろ?」
「……………」
「俺は、嫌だね。お前にただ“甘受”されるだけの男だなんて、そんなこと、許さないよ。認めるものか」

仁王の人工的な瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。いや、紡ぐだなんて高尚なものじゃなかった。これはもう“吐き出す”というレベルだ。
胸の中に渦巻いていた黒いものが俺の唇を借りて外へと逃げていく。
だって俺はどうしても、許せなかった。俺が仁王にとって赤也、いや、他の奴と同じだと言うことが。

「…幸村は、分かっとらん……」
「なんだって?」

虚ろな瞳でたどたどしく言う仁王を、思わず睨みつける。

「幸村、……そんな怖い顔せんでよ。赤也、は…違うんじゃ。そんなんじゃ無いんじゃ…」
「何が違うって言うんだ。お前の身体に傷をつけたのはアイツなんだぞ?」
「それは、そうじゃ、…けど。違う。赤也だけの、せいじゃ…無い」

一体どういうことだ。
本当なら肩を揺さぶってでも言葉の続きを促したいところだが、そういうわけにもいかない。
だって相手は仁王だ。干渉のし過ぎはお互いのためにはならない。その上、今の仁王はどこかおかしいのだから。

か細い声に耳をすまし、待つしかなかった。





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