学校帰りに二月の定期試験に向けて早くも勉強をはじめる連中に混じり、ファストフード店に寄っていた。途中でどうしても帰りたくなって、私は食べかけのポテトと飲みかけのジュースをクラスメイトに押しやって店を出た。こういうことをよくするから、友人とはあまり長く続かない。あいそを尽かされるというのが正しい表現だろう。でもそんなことはほとんどどうでもよくて、私はかかとを潰したスニーカーで帰路をたどった。スクールバックの中身はすかすかで、先週新学期早々忘れ物が多すぎると担任から忠告されたばかりなのに懲りていなかった。おかげで軽くていい。早足で慣れた途を通り、駅からけっこう離れた住宅街へとバスも利用せず歩いた。
 アパートに着く前に、近くの駐車場を確認して帰るのが昔は日課だった。あの人の自動車の有無で帰宅がわかるからだ。でもそれも五年くらい前からやめた。そんなことをするだけ時間の無駄で、どうしてもかすかに期待してしまうのをやめられないのが疲れたからだ。いまはアパートに直行し、ドアに手をかける。ポストには不要なチラシが少し溜まっていたが無視した。
 玄関にはいると、靴はなかった。私はスニーカーを脱ぎ捨て、電気も点けずに自室にいった。暖房をいれたらベッドに座る。
 ゆっくりと、日が落ちはじめる。そして、窓がじっとりと結露していく……
 気がつけばうたた寝をしていた。目覚めたのは夜の八時で、着たままだった制服のブレザーがしわになっていた。それからスカートの跡が太ももについていた。
 寝起きのいやな気分で部屋を出てなにか食べようとキッチンをあさる。そのとき点けていないはずのキッチンの小さな蛍光灯が光っていて、私は眉をひそめた。居間もリビングも薄暗い。キッチンの蛍光灯だけが周囲を照らし、ものの陰を作り出している。
 玄関の近くにある部屋にいく。その際玄関を見ると、私の脱ぎ捨てたスカートはきちんと靴箱に片付けられ、隣には黒い革靴が並んでいた。それからやっとキッチンのシンクに溜まっていたゴミや食器がなくなり、居間やリビングに出しっ放しだった屑や私の靴下などもなくなっていたことに思い至った。しかし私は、微塵も喜ばない胸を感じていた。
 玄関の近くにある部屋のドアは閉まっている。ノックしようとして、やめ、もう一度ノックしようとし、固まっていると勝手にドアが開いた。
 かなり妙な顔を、あるいはひどく不機嫌な顔をしているに違いない。私は真似をするつもりなんてさらさらないのに、つい眉をひそめてしまう。あの人がドアを開けて、「なんだ」といった。
 その顔はやはり顰め面だった。
「おかえり」
 挑むような目付きと口調になった。低い声でそういうと、目の前の背の低い男は私と数センチしか変わらない高さの視線で私を見下ろして「服を着替えろ」といった。
 はあ? といいたかったのに、遮られる。
「長く着てるとしわになるだろうが。それと靴は脱いだら靴箱にいれろといったはずだ。使った食器はその都度洗え。ゴミは捨てろ。脱いだ衣服はかごにいれろ。あと調理済みのモンを食うのはやめろ添加物が多い」
 最後のは心配からの言葉なのだとエルヴィンがいたらフォローしてくれると思ったがそれ以外はどうあがいても一月以上ぶりに会った家族に開口一番いう言葉ではないと思った。かといってこんなのはいつも通りで調子の悪いときは目を合わせても一言も話さないことだってあるからべつによかった。
 久しぶりに会ったのだから喜ぼうと思ったのにしかし私は腹立ちがまさって無言で部屋の前から立ち去った。いつもこうなる。
「おい、返事くらいしろ」
 うるさいと小さな声でいうと「遅ェ反抗期だな」と呟かれてよけいに腹が立つ。
 もっと別の反応を寄越してくれたらたぶんちょっとはましな会話ができるのにと性懲りもなく思うのだ。だけど怒らせるのもすごくいやでなるべく口をつぐむしかない。私は高望みせずおとなしくいるべきだ。気持ちの悪いことは思ってはいけない。
 あまり寝ていないのかあの人の目の下はうっすら青くいつにもまして顔がこわく見えた。神経質な人だから飛行機のなかでは他人の隣で寝られなかったのかもしれない。
「夕飯は」
 リビングの電気を点けて、自室のドアを勝手に開けて尋ねてきた。
「まだに決まってるじゃん」この子どもっぽい返事。
「適当なもん作ってやる。引き込もってねぇで出てこい」
「いい。いらない」
「拗ねてんのか。くだらねェ」
「拗ねてねーよいらないっていってんだから放っとけよ」
「口の悪ィガキだな。だったら好きにしろ」
 口が悪いのは誰だよ。
 しかしあの人が戻ってしまうと私はとたんに強い後悔に襲われてベッドにうつぶせになった。エルヴィンだったらここで放っておかずに夕食を作ってできた頃に私を呼びにきてくれるだろう。用意されてしまえばそれを邪険にするほどの勇気のない私をよくわかっているから私はいかにも渋々といった体でリビングにいく。でもいざエルヴィンにそうされたらそのときは放っておいてくれないと不満に思うのに実際あの人にこうして放っておかれるとそれも不満でたまらないのだ。
 おかえりといったらただいまと一言くれればそれできっとすべてなにもかもどんなことも帳消しにできたのに。
 夜、エルヴィンから電話がかかってきた。リビングの子機を取るとエルヴィンからで、廊下の明かりが漏れただけの暗がりのなかで、あの人が起きてこないか気がかりだった。起きてこられたらまたしょうもない言い合いになるだろうことがいやだったからだ。
「あまり元気そうじゃないな」
「べつに……普通」
「そうか? リヴァイはいるんだろ?」
「一応ね」
「一応ってなんだよ。まさか喧嘩でもしたのか」
「べつに」
「困ったものだな、あいつも」
 エルヴィンは私ではなくあの人に非があると取ってくれるらしい。そんなことはないといえなかった。私がよくないとは。
「それよりそっちは何時だい。もう夜中だろう、てっきりリヴァイが出るもんだと思ってたんだが」
「二時だけど」
「悪いな、起こしてしまって。意外と時間がなくてね」
「いいよ。夕方寝ちゃって寝れなくて起きてたから」
「明日も学校だろう」
「うん」
「朝はちゃんと起きてるのかい」
「まあね」
「明日はリヴァイがいるから心配ないかな」
「いてもいなくても変わんないよ」
「そんなことないだろう。それであいつ今度はどのくらい家にいられるんだ?」
「聞いてない」
「そうか……私から聞いてやろうか?」
「いいよ」
 やさしい人にやさしくできるといい。私はやさしくされると突っぱねてしまう人間だから、やさしさは嫌いだ。私がどんなにいやな人間かを、見せつけられる。
「寝ぼけて小便でも漏らしたか」
 電話を終えて、眠れなくなってキッチンの蛍光灯だけ点けてテーブルについていると部屋からあの人が出てきた。いつから起きていたのか、まだ寝ていなかったのかはわからないがもしかしたらさっきの電話の声も聞いていたのかもしれない。やましいことなどないが、なんとなくうしろめたくて口を固く結んだ。しかし沈黙にはできなくてあの人のいつもまるで笑えない冗談に「なにいってんの」と吐き捨てるように返事をした。
「さっさと寝ろ。ガキが夜更かしするもんじゃねえ」
「うるさい」
 わざとらしく耳を両手で塞ぐ。どうしてあの人はそんなくだらないことしかいってくれないのだろうと思う。違う。私が素直にいうことを聞けばきっと話は早いのだろう。そして、きっと少しは仲よくすごせるはずだ。
「無断での遅刻・欠席が今年にはいってすでに五回。遅刻はまだしも欠席ってのはなんだ。まともに登校することもできねぇのか」
「うるさいって」
 これまで黙って見過ごしてきたくせにいまさらなんだといいたくて、しかしそんなことをいうと怒られると思うといえなかった。つまり心のどこかではあの人の言い分は正しくて、いまここで議論しているのは「そんなことをいう前にもっとべつの話をしてよ」という私の私情を大事にしたものではないということを、私はわかっている。でもそれは理性と理屈であってそれ以上ではない。
「なにか悩んでることがあるんだったらいえ」
 なんでそんなことがいえるのか。わからない。おそらくあの人も私のことなどやはりわかっていないということだけがわかる。
「だからうるさいんだって!」
 喧嘩もしたくない。喧嘩をして怒られるのはひどくこわい。あの人にそういう目で見られたとき、私は死にたくなる。子どもではない。もう。しかし突如子どものようになる。怒らないでほしい。なにか話をしたいだけだ。それがダメなら簡単にごはんを食べようよ。一日のうちのいくらかの時間を共有したりしたいだけだ。きっとほかの家では当たり前のようにそういうことをしているんだろう。
 なぜそんなことができない。
 私のヒステリックな声に辟易したのかあの人は黙って私を見つめ続けた。冷たい目ではないことはわかるのにこわくて私は席を立つと部屋に逃げた。
「おやすみ」をいってから眠った夜はいつが最後だっただろう。忘れてしまった。
 次の日私は見事に寝坊して、怒られると思って急いで着替えて部屋を出た。すると家のなかはもぬけの殻で、あの人の靴は玄関から消えていた。午前八時半。マフラーをきつく巻いてからドアを開けると、そこは薄明かるい灰色の冬に降り込まれていた。
 後悔というには息が苦しく、怒るのも泣くのも私にはふさわしくないと知っていて、私は顔を顰めるだけだ。
 薄い雪が細かに視界をかすめていく。
 出ていったその日に帰ってくることはこれまでに一度もなかったから、私は放課後教室で携帯をいじって時間を潰していた。冬の日暮れはおそろしく早く、午後四時半ですでに西日が傾ききりそうになっている。雪は降ったりやんだりを繰り返し、薄くも厚くもない連綿と列なる鈍色の雲を透かしてわずかに西日の気配がしている。うす青くはじまる冷たい急かされた夜の感じに教室の陰も青く、私の左頬は冷えていた。今日にかぎってクラスメイトに遊びには誘われず、私は時間をもて余していた。
「最終下校まであと五分だよ」
 秀才のアルミンは図書館で勉強をしていたらしく、教科書類を持って教室に戻ってきたところで残っていた私に声をかけてきた。時刻は午後五時二十五分だった。もはや日は落ちて電気を点けなければ教室は真っ暗だった。手もとの携帯だけが皓々と光っている。
「暖房もきれちゃって寒いのに、どうして残ってるの」
 興味本位よりかは心配が占めたようすだった。私はそれをどう感じるべきなのかわからず、受け答えに戸惑って「なんとなく」と答えた。
「帰らなきゃ、先生に怒られるよ。……もし、よかったら、下まで一緒にいかない?」
 やさしいけれど気の弱いアルミンは、そのやさしさがとても控えめなので助かった。私は「うん」とだけ答え、携帯をしまって荷物を持つとアルミンとともに教室を出た。廊下は冷えきっていた。息が薄暗がりのなかに白く浮かび上がる。「エレンが、中間テストで全教科半分取らないと小遣いを減らされるって嘆いてたよ。だったらもうちょっと普段から頑張ったらいいのにね」気をつかってかアルミンは下まで降りる途中ずっとエレンやミカサの話をした。時々ジャンやマルコの話もしながら、彼の友人のちょっとしたたわいのない日常のことを聞いて、妙に遠く感じてしまう。そういうものがはっきり羨ましいとは思わないが、素敵なものだとたしかに感じた。
「じゃあ、また明日」
「うん。ばいばい」
 昇降口で別れて、そのやり取りがふいにままごとのようだと思ってしまった。アルミンにつられて振った右手の先がかじかんで、動きはぎこちなかった。
 家にはまっすぐ帰らず、公園に寄った。冬の凍えが容赦なく押し寄せるベンチで、エルヴィンの作ったココアが飲みたくなった。このまま風邪を引けば学校は休めるし、ベッドでなにも考えずに寝ていられる。それはいい。それがいい。
 帰りたくなかった。あの家になにがあるというのか。あの家にはなにもない。
 私はなにかに追い立てられているかのようで、勝手に一人で責め立てられているかのように逃げてばかりいた。
 風邪を引いて倒れてしまうまでいてやろうと馬鹿なことを決めて、一時間ほど公園にいた。やがて寒さに耐えきれなくなって弱くもアパートまで帰ると、制服から着替えたらまたどこかにいこうと考えていた。しかし、ドアを開けると電気が点いていて、靴箱には黒い革靴が正しく収まっていた。
 期待とも喜びともわからない早くなる心臓のままリビングまでいくと、きちんと電気の点いた部屋のソファーであの人が寝ていた。ソファーで寝るなんて珍しいが、よほど疲れていたのだろう。飲みかけのコーヒーがテーブルにあった。冷えていたのでずいぶん前からそうしてあるようだった。あの人はクッションに顔を押しつけて擬似的に顔の周りに暗闇を作っていた。
 なぜいるのかわからなかったが、騒ぐのは愚かしくて自室にはいった。着替えると、そのままなにもせずにベッドに座った。外にいこうと思っていたのにいく気はなくなり次はいついってしまうのだろうという不安に遽然襲われてじっとしているのがこわくなった。今朝いなくなって、しかし早くも帰ってきてくれたのに、とにかく次がこわかった。あの人がいても、いやいればいるほど、私はこわいだけだ。
 だったらもういなくなればいい。
 そうなっても絶対に私は泣かないのに。
「いつ帰ってきたんだ」
 夜中、十時をすぎてから起きたらしいあの人が部屋にこもっていた私にいった。ノックもせずにドアを開けて横柄に尋ねられると意味もなく不満になってしまう。私のほうが聞きたいセリフだと内心で思っていた。
「いつだっていいじゃん」
「いつ帰ってきたんだって聞いてんだ。答えろ」
「七時。それがなんなの?」
 むやみに腹立たしく思うのをやめたかった。
「ガキが夜に出歩くんじゃねぇよ。さっさと帰ってこい」
「関係ないじゃん。ていうか七時とかぜんぜん遅くないし」
「ゴタゴタぬかすんじゃねェ。メシは」
「いらない」
「食ってねェんなら作ってやる。ちゃんと食え」
「いらないってば」
「なにが気に食わねえのか知らんが拗ねるのもたいがいにしろ」
 枕に押しつけていた顔を上げると思わず睨みつけた。子どもじゃない。これは拗ねなんかじゃない。でもそんなふうにしか見えないのか。
「拗ねてない」
「そうか。じゃあメシ食って風呂はいったらクソして寝ろ」
 いいたいことがいえない。なにからどんな感じでいったらいい。どういう顔と態度でいえば聞いてくれるのだろう。難しくていやになる。
「メシなんかいらないから!」
 部屋から出ていったあと閉められたドアに向かっていった。でもその声は思いの外小さくて情けないものだった。
 ふて寝をしたつもりが、あっさりとごはんのにおいに起こされた。午後十一時、あの人の作ったイタリアンスパゲティはとても簡単な夕食で、添加物がどうのと文句をつけて調理済み食品を嫌うわりにはたいして栄養バランスの考えられた食事ではない。普段家事をしない男性でも作りやすいというのは事実だが。
 おまけにコーンスープがあった。コーンスープの缶なんて家にあったっけと記憶をたどるが、そういえば前にエルヴィンがきたときに買ってきていたような気もする。あくまで無表情に部屋からリビングへ出ていくと、あの人がテーブルについてコーヒーを飲んでいた。把手があるのにそれを使わずカップの口を持つ、変わった飲み方をする。それを見るのがふと懐かしくて、眉をひそめた。そうやってものを飲むあの人の真似をして遊んだことがあったのを思い出した。ささいな過去だ。とても些末だ。しかし些末であるほど私たちからは遠かった。
 いただきますもいわずに席につくなり食事をはじめた。それは普通の味で、しかし少し食べるのが遅かったか、少々冷めて、私はどんな顔をすればいいかわからなかった。なにもいわずに食べた。
 でも、おいしかった。
 私が常に消音にしているテレビを消音のままであの人は見ていた。テレビなどあまり見る質ではないのに珍しいが、なにもせずに私の食事を見ているのは耐えられないからかもしれない。画面に映し出される色鮮やかな光景が切り替わるたびに無感動な部屋を騒がしく照らす。深夜の静寂を表層だけ賑やかに装うそれは常に空回りしているようだ。だからテレビも嫌いだ。
「急遽加国にいくことになった」
 食事を終えて片づけようとしたところで、あの人は突然いった。静まり返っていた室内にそれはよく響き、私は聞き漏らすようなこともなかった。
 どこにいくかなど、いつもわざわざ教えてくれたりしなかった。しかしそれは国内にかぎってのことで国外となると違う。あの人が海外へいくのは久しぶりのことだった。昔は三度ほどあったが、なにか理由があってのことだろう、いつからかぷつりとなくなっていた。今朝いきなりいなくなっていて、今日なぜか戻ってきていたのはそのためだったのだとなんとなくわかった。いろんな事情が人にはある。それは「しかたない」の一言で済まされるべきものだ。
「そうなんだ」
 私はうつむいてからになった食器を見ていた。長ければ優に半年や一年は戻らない。
「いついくの」
「明日の昼の便でいく。朝にはここを出る」
「ふーんすごくいきなりじゃん」
 嫌みっぽい口調になる。文句はない。ないのになぜ。文句はないのだ。しかたないことだから。そのはずだ。
「しばらく戻れん。なにかあったらハンジに連絡しろ。話はしてある」
「わかった」
 食器を片すと、リビングから立ち去ろうとした。そのときにわかに名前を呼ばれて驚いた。立ち止まって振り向いて、なにかいえばよかった。聞きたいことはあっただろうが。
「寝る」私は吐き捨てるようにそれだけいって、部屋にはいった。
 なら次はいつ帰るのといえないのは、私の弱さだ。
 夜明け前、一睡もせずにベッドで腐っていた私は電話の音で身を起こした。こんな時間に電話をかけてくるのはおそらくエルヴィンだろうと思い、リビングの子機を取った。案の定、エルヴィンだった。彼のいつも穏やかな声が急にいま私の胸を撫でたようだった。冷えた床を踏んでかじかむ素足をすり寄せた。
「悪いね、起こして。リヴァイは寝てるか」
「ううん起きてたから。あの人はたぶん寝てるんじゃない。疲れてるみたいだったから」
「そうか。……こっちへくるという話は聞いたかい」
「うん」
「……そのようすじゃ事務的に終わったみたいだな」
 黙っていると肯定と受け取ったらしい。
「あいつが立つまでまだ時間があるだろう。きみたちはきちんと話をすべきだと思うな」
「話すことなんてない」
「リヴァイにはあると思うよ。それからきみにも」
「ないよ」
「泣いたか?」
 私は子機を耳に押しつけたまま眉を寄せた。「なに? 泣いてないけど」
「泣いてしまえばいいと思ってな。そしたらあいつもちょっとは焦るだろう」
「泣くわけないじゃん……いくつだと思ってるの」
「歳なんか関係ない。たまには泣いて素直にならないと損をするだけだよ」
「なにそれ……いいよ……べつに泣くこともないし」
「あいつのせいでちょっとひねくれてしまったらしいな」
「あいつがひねくれてるからね」
「ああ、なかなか厄介だよ」
 リビングは寒かったので、子機を持って部屋に戻った。あの人が起きてきてもいやだった。
「知っているか」
 ベッドに仰向けになって耳を傾けた。あの人とも、こんなふうに穏やかに、いつか話ができたらそれはひどく素敵なのだろう。
「なにを」
「リヴァイは、あれでとてもきみのことを思っているんだ」
「……なにそれ……」
 夜が明けたら朝がくる。待ち遠しい朝などに会ったためしはなかった。これからもない。朝になればあの人はいく。昼にはこの国の土からさえも離れている。朝はとても聡明な日差しが東から私を照らし出す。それは清廉すぎて不在を浮き彫りにしてくれる。なに一つ隠すこともない。
「口下手だからな、史上最悪に。これ以上ないってくらいだ。だからわからないことのほうが多いだろう。しかし、あいつが家に帰らないのは、きみのためでもあるんだよ」
「ふうん……あっそ」
「拗ねるなよ。真面目な話だ。きみはあいつにないがしろにされてきたと感じているかもしれないが、そんなことはない」
「べつにそんなこと思ってない」
 いや思っていた。
 でもそれは醜いだけだと知っているから知らないふりをしてきただけだ。だから文句をいいたいくせにいいもせず、我慢強いつもりでいただけだ。
 私はたしかに愛されていたのだろう。でもそれをたしかめなければ感じられない子どもだった。それでたしかめる方法もなかった。愛されていたのだろうと理屈でわかっても実感に足りうるものがなければなかったことになる。
 子どもは愛されるべき存在だと説いたのは誰だったろう。それが真実でも嘘でも、子どもは愛されかたを知っていたとしても、それを実感するすべが子ども一人では手にできないことを、あの人に知ってほしかった。あの人は悪くない。不器用で、無愛想なだけで、本当はすごくやさしくて情のある人だと私だって知っている……でも、それを知っていたところで、それだけだった。私もあの人も人に歩み寄るのが本当に馬鹿みたいに下手くそだった。
「口が悪いからむやみにきみと話をしないようにしていたんだろう。子どもは傷つきやすいからね。でもそれはきみが大切だからだ。そうでなければ、私もリヴァイも、きみのことなど考えず二度と日本には戻ってこなかっただろう。これまでにもリヴァイは度々出張を断っている……これは口外無用だといわれてたんだがな……あいつには内緒にしてくれよ。リヴァイはいつもきみのために一日でも早く帰れるようにしている。きみを愛しているからだ」
「……ぜんぜんわかんない」
「わかるさ。きみが、本当は私よりリヴァイのほうが世界で一番だってことを、あいつは知ってるからな」
 それはいいすぎだと思ったが黙ってしまった。そんなことをあの人が知っているはずがない。第一唐突にそんな話をされてもはいそうですかとはいえない。それ以上にエルヴィンの話はとてもわかりやすく、よくあるような話かもしれないが、容易であればあるほど私には理解できなかった。したくもない。
 それが本当なら、私は物分かりの悪い子どもでしかなかったことになる。
「朝まで時間がある。少し考えてみるといい。答えが出たならきみはあいつに話をするといいだろう。それと一つ、きみの決断が遅れてもしもあいつを空港まで追いかけなくちゃならなくなった場合、あいつの気にいっている場所がある。新第二ターミナル四階のラウンジだ。迷ったらそこにいってみるといい。あいつが出国するまでがリミットだよ」
 エルヴィンの言葉は暗号のようにも聞こえた。解きたくもない暗号だった。私は相当愚かなのだろう。
 話すことなどない。あればとうに話している。あったのならなぜこれまで一度もまともに会話さえできなかったのか。
 それを私は見たくない。
 エルヴィンはあくまでやさしく私のために話してくれたが、電話を終えたあと私は困惑と不安のまま疲れに身を委して寝てしまった。なにかを考える暇もなく、あの人と話をする暇もなく、知らぬうちに朝がきた。
 鉛色の冬が、カーテンの向こうで厳かに待っていた。
 灰色の朝日。
 携帯を見ると時刻は午前九時二分で、もはや完全に学校には遅刻する時間だった。あの人は早く家を出たのか私を起こしていったりもせずいつものように部屋はひどく整頓されてばかりでがらんとしていた。私にはこの部屋がいつもほんとうに無機質に空気も薄く、角というものすべてがさえ渡り突き刺さるほど、褪めているように見える。褪せきっている。なにかに疲労し諦めを覚えたかのように。
 寝不足もあって重い頭で重いからだを引きずりリビングで水を飲む。いまから追いかければまに合うのではないかと誰かがいうがそれを知りながら呆然としていた。逃げていればいつか追いかけてきてくれるとか、逃げきったらご褒美があるとか、あるいは待っていれば迎えにきてくれるのだと信じていた子どもはとても愚かだった。私は呆然としたくて呆然としているのだ。思考をすべてなくしたかった。
 携帯のアドレスから、登録して以来数回しかかけていない電話番号を開いた。電話でもいいのではないかと弱虫が鳴く。でも電話すらできずに三十分は迷っていた。ようやくコールボタンを押して、携帯を耳にあてると、私は一人で息を詰めるのだ。
 しかし電話は繋がらず、コール音が鳴り響くだけ。留守番電話にさえならず、三十回は鳴らしたところで切った。時刻は九時半をすぎている。昼には立つといっていた。たとえばいまから空港にいったら、もしかしたら会えるかもしれない。
 でもなにを話せばいいというのだろう。わからない。
 わからない。本当にわからないがわからないと駄々を捏ねたら救われるわけでない。ゆっくりと悔恨が底を満たしはじめるだけだ。
 十時になって、私はやっと服を着替えた。学校にいく途中に気が向けば空港へいけばいいという逃げ道をここにきて残し、制服姿にマフラーをしてアパートをあとにした。外では風が街路を鳴らしていた。硬質な研ぎ澄まされた空気が息を凍らしていく。膝と耳がじんと痛むほど寒かった。
 学校へいく気なんてもはや最初からなく、たとえば飛行機を見送ることができたら一人でメソメソ泣いて終わりにしようと考えた。自分がそれほど割りきることのできる人間でないと知っているくせに。それでも通学路を歩いて学校にいくふりをしていた。
 小学生だった頃、少しだけあの人の帰りが早いことがあった。二、三日の周期で出かけては帰宅を繰り返し、会える日も多かった。だから会えるとわかっている日は放課後授業が終われば一目散に帰宅してあの人が帰るのを待った。会えないとわかっている日はクラスメイトと遊びにほうけた。けれどいつまでもそんな日々が続くわけもなく、あの人の帰りは再び不定期になりいつ帰ってきていつ出ていくのかわからなくなりはじめた。私はそれでもなるべくクラスメイトと遊ぶのをやめにして可能性がある日はかならず放課後すぐに帰ることにしていた。あの頃、私は「二番がリヴァイ」だったのに、その「二番」と一緒にいられることを世界のなによりも大切にしていたのだ。
 あの人から「明日帰る」という連絡があったということを、仕事の合間に私の世話をしてくれていたあの人の知人のハンジが教えてくれたその日の翌日、私は喜びで胸を膨らして小走りに帰路をたどった。「鬼ごっこしようぜ」というエレンの遊びの誘いを断って、「今日は早く帰る日なんだよ」と笑顔でいった。「ばいばい」と機嫌よく手を振りながら学校を出て、十六センチの靴で途を駆けた。蝉時雨が降りしきる盛夏に透明な汗をまるく額に浮かばせて、アパートの階段を一段飛ばしで駆け上る。あの人が疲れていたら静かにしていよう、でもそばで宿題をするくらいならいいよねとか考えながら鍵をドアに挿し込んで開け、玄関にはいった。常に砂や石も掃き出された奇麗な玄関にはなにもなく、右手に据え付けの靴箱がある。
 けれどそこには靴はなかった。
 あの人の黒い革靴はなく、私の雨の日用の黄色の長靴があるだけだった。
 予定が変わって帰るといった日に帰ってこないことなど日常茶飯事だった。それでもあの日の私は、あの人が帰るといったその日があの人の帰る日なのだと思っていた。何度でも。
 中学になった頃には遅くまで遊んだり時間を潰すことが増えた。もう予定が変わることを予期してその日に帰ってこなかったからといって簡単に悲しむようなことはしなかったが、しかしまだ私はあの人が帰る予定の日にはなるべく家にいるようにしていた。人はなかなか変われない。私は待っていた。
 中学で知り合った友人に放課後にカラオケにいかないかと誘われ、その日はあの人の帰る予定でない日だったので二つ返事で快諾した。門限があるからと夜七時前にはグループの半数が帰るなか、私は八時まで遊んでから、街路に並ぶ植木の土に霜が降る真冬の途を帰った。途中のコンビニで肉まんを買って片手に持って食べつつ、アパートが近づいてくると鍵を出して指先で遊んだ。丈を短くしたスカートを風が靡かせ、晒した脚を凍らせていった。私はアパートの前に着いたとき携帯に着信があるのに気づいた。友人からで、家に泊まりにこないかという話だった。翌日が土曜日で、私はやはり二つ返事で快諾した。「じゃ、いまからいくね」アパートの前まで帰ってきていたが、肉まんの包み紙をまるめて道端に捨てると、鍵をしまって部屋にははいらず引き返した。二日後の日曜日の夕方、友人宅からようやく帰ってくると、かじかむ手を息であたためながらアパートの階段を上がった。まだ、あの人は帰っていないはずだった。予定では、日曜日の夜か月曜日の昼に帰るはずだった。どうせ早くても月曜日の昼で、でなければ火曜日になるだろう、それも違えば二、三日遅れて帰ってくるだろうとこれまでのことから私は考えていたのだ。
 階段を上りきって鍵を鞄から取り出そうとした私は、上ってすぐの部屋のドアの前に荷物を持ったあの人が立っていたのを見て愕然とした。あの人はドアに鍵を挿し込んでいるところだった。立ち止まって言葉をなくしている私を横目に見やると、あの人は鍵を引き出し、鞄にしまいながら「よう」といった。
 他人みたいに。
「かえ、ってきたの」
 言葉が突っかかって、変に切れた。
「いまから行くとこだ」
「えっ」
 出発前、ドアに鍵を閉めていたところだったらしかった。リノリウムの廊下は日が落ちた暗い冬の夜もアパートの蛍光灯をぼうっと反射していた。柵にはうっすらと霜が降りて白っぽくきらめいていた。ダッフルコートの深い紺が、あの人を夜闇に馴染ませようとしていた。毛糸のにおいが冬の風のにおいに絡んで散り散りになっていく。
「え、なんで、だって、今日の夜か明日の昼に帰ってくるっていってたじゃん……」
 納得いかなくて、怒りたくて、しかし怒りというものは常にまるで役立たずで、それよりも混乱がまさって私はあの日も駄々を捏ねる子どものような声をしていたのだろう。
「予定より早く終わったから早く帰ってきただけだ。それより鍵をかけるのを忘れてんじゃねェ馬鹿。オレが帰ってきてなきゃ二日間開けっ放しだ」
 鍵はちゃんとかけていたつもりだがかけ忘れていたらしい。しかしそんなことは至極どうでもよくて私はなにかいおうと口を開けて固まっていた。じゃあリヴァイは本当は一昨日の夜に帰ってきていたの。私がいったんここに戻ってきたときにはもう家にいたの。それともそのあとすれ違いで帰ってきたの。なんで……「なんで連絡くれなかったの」
「てっきりクソメガネのとこにでもいるのかと思ってな。それよりそこをどけ。邪魔だ」
 風が強くなり、頭上を流れる雲が月を隠しながらものすごい速さで動いていた。風は新たな雲を運び、夜更けにはみぞれが降ってきた。あの人が私とすれ違いで出ていったリノリウムの廊下は、朝にはしとどに濡れて雪の名残りのような跡を残していた。
 でも、その日も、それよりずっと前の日も、もっともっと前の日も、私は不在の鎮座したあの妙に広いアパートで泣きもせず呆然としていた。考えることをやめてしまえば、感じることもあまりなく、涙も出ないことを知っていた。
 そして泣くのは、醜いことだと思っていた。
 大通りに出ると、空港までの道順を唐突に携帯でネットに繋いで調べ出し、ここからだと昼までに空港に着くのはほとんど無理だとわかった。それでようやく焦りが生じてとりあえず私はシャトルバスの出ている場所を調べたがむろん近場にはなく、そのとき道路を通りがかったタクシーを気づけば止めていた。タクシーが私の前で止まると、なかにいるドライバーが私が制服姿であることを見て一瞬だけ眉をひそめたように見えた。けれど怯んでいるまもなく、私は乗り込み、「どちらまで?」と首をうしろにひねって尋ねたドライバーにわずかな逡巡ののち「空港まで」と答えた。タクシーが走り出してから、金が足りないかもしれないことに気がつく。しかし、いまさら私は戻る気はなかった。まに合わないに違いないと思うのは最初から諦めていれば傷が浅く済むことを知っているからだ。まに合わないだろうと思いながら、まに合わなければもう私はあの家に一人にはなれないことを感じていた。
 空港まで、三時間かかった。時刻は十三時をすぎ、灰色の雲は明るさを増して白く輝いていた。日差しが厚い雲を裏から照らしていた。
 空港の広いフロントへたどり着くと、近くに大きな看板が立っているのを見てからターミナルビルにはいり、エルヴィンのいっていた新第二ターミナルビルの四階に急いだ。しかし一度も空港を利用したことのない私は近代的な造りの広大な構造に戸惑い、頭上に大きく示されている標識を確認しながら進むもののすぐ迷ってしまう。
 時季としては旅行シーズンではないと思うのだが、それでも大勢の人がいて単なる観光客もいるのか一般エリアのショップにはたくさんの人が群がっていた。
 飛行場が見える場所にくると、私は俄然、過去に数回ここにきたことがあったことを思い出した。そのときはエルヴィンも一緒だった。あるいは、エルヴィンの知人が。そして、あの人を、あるいはあの人とエルヴィンを、迎えにきていた。
 空がよく見えるこの場所が嫌いだった。人が多く、広大で、無機質で、未来に取り残されるようで、完璧に磨かれた床も、壁も、高い天井も、目障りだった。
 昼のどの便に乗るのかをきちんと聞いておけばよかった。もうあの人はここにはいないかもしれない。時刻は十三時をすぎているし、すでに何本もの便が出発しているはずだ。どうせ会えやしないとわかりながら、さがさずにはいられなかった。途方もなく広いビルのなかで私は周りの利用客から浮いてかかとを履き潰したスニーカーで小走りで駆け回った。
 なんとか四階のラウンジを見つけた頃には十四時前で、もちろんそこにあの人の姿はなかった。冬だというのに動き回ったせいとよく調えられた空調のせいで、私の肌はしっとり湿っていた。
 また新たな飛行機が到着し、別の飛行機が離陸するのを硝子越しに見た。流線形の白い機体は滑走路をなめらかに走っていきやがて飛び立つ。
 私は電子掲示板に次の加国行きの便を見つけ、それにあの人が乗るかどうかもわからないが、出発ロビーに向かった。そこが、出国前の一般客の私がいける限界の場所だった。
 出発ロビーには飛行機の利用客が大勢集まってきており、手荷物のみを所持した旅客がどんどんゲートを抜けていく。待合室に座る旅客のなかにあの人がいないか見渡し、ゲートを抜けていく列も確認したがおらず、私は隅のほうで呆然と立ち尽くすだけだった。
 踵を返すと出発ロビーから去り、ターミナルビルをあとにしようと歩き出した。近くにエレベーターがあったのでそれに乗り込むと下に下がっていく。一面が透明な素材で覆われたエレベーターからはビル内がよく見える。足下を見ながらエレベーターが一階に近づいてくると乗り込むためにドアの前で待っている客が見えた。
 私はそれを透明なドア越しに先に発見し、目を疑った。あの人が荷物を持ってエレベーターを待っていた。
 エレベーターが階に停まり、ドアが開くとあの人は平生通りの顔をして「なんでここにいる」と呟いた。若干の驚きは感じられたが、それよりも顰めたような顔が怒っているようにしか感じられなかった。
 私は戸惑いながら微妙なまを空けると「べつに」と答えてしまい、いやな空気が流れる。「べつにじゃねえだろう。学校サボるためにわざわざこんなトコまで来んのかてめェは……」ボタンを押してドアを開けたままにしているとほかの客が乗り込んでくるので邪魔にならないよう急いで下り、そしてあの人が当然のような顔で「さっさと帰れ」というなり乗り込もうとするので迷惑は承知で腕を掴んで無理やり引っ張った。「オイなにしやがる」そんな暴挙に出るとは微塵も思っていなかったに違いなく、あの人は私に引っ張っられるままエレベーターから引きずり下ろされ、エレベーターはあの人と私を取り残して上がっていった。
「なんだ」
 溜め息をこらえたような声であの人がエレベーターのドアの前で振り返った。私はそこでやっとあの人の腕を放し、どうしても意地を張りたくなるのを必死で抑え込んだつもりでまた「べつに」といった。
「ああ? だったらさっさと帰って学校いけクソガキ。おまえの気紛れにつき合うほどオレは暇じゃねぇ」
 次のエレベーターを待って乗ろうとするので私はあわてて荷物を掴んだ。「ちょっと待って!」
 いい加減あの人も面倒になったのか眉をひそめて「だからなんだ」と吐き捨てるようにいった。
 なぜ私がここにいるのかわからないのか。こんなところに学校をサボるためだけにくるわけがない。しかしあの人もあの人で意地っ張りだから私が引かなければ。エルヴィンもいっていたじゃないか。いざとなったら泣いてしまえばあの人も迂闊に行動できないはずだ。とはいえ涙はこれっぽっちも出そうになかった。
「次はいつ帰ってくるの」
 あまり目線の変わらないあの人を下から睨むような目付きで、挑むような低い声を出す。これでもかなり譲歩して私から歩み寄ったつもりだった。それでもあの人はわかっているのかいないのか、態度を変えてくれない。
「さあな……早けりゃ三か月ほどだろう」
「……ふうん……」
「てめえから聞いといてその返事はねェだろうが」
「うるさい」
「ああ? つくづく生意気なガキになったもんだな。昔はもっとおとなしくてよかったんだが」
「あんたに似たんだよ馬鹿」
「そうかよ。そりゃかわいそうなことだな。じゃあな」
 隣のエレベーターが開いて、客が下りてくる。別れの言葉を適当にいうともういこうとするあの人に、今度こそ私はこれ以上の引き止める言葉を見つけられず黙り込んでしまうしかなかった。
 けれど、そのときあの人の携帯に電話がかかってきて、あの人は至極苛立ちげに足を止めた。
「なんだ」
 気の知れた知り合いからのようで、電話に出るなりにべない態度を取る。「ああ? ……てめぇも暇なもんだな。そんなことでいちいち……チッ。……わかってる。…………」最後はなにもいわずに非常に不服そうなようすで電話を切った。そうこうしているあいだにエレベーターはいってしまった。
 誰だろう。まさかエルヴィンだろうか。
 そう思っているとあの人がいきなり踵を返し、私の一歩前まで戻ってきた。困惑し、つい睨むような目で身構えて見ていると、一言いった。
「土産は」
 は? と固まっていると、苛立たしげにもう一度いう。
「土産だ。なにがいい。買ってきてやる」
「な……なにって、わかんないし。適当なものでいいけど……」
「そういうのが一番面倒くせえんだよ……まあいい」
 そんなことのためにわざわざ戻ってきたのかと思って戸惑っていたら、リヴァイは顰め面のままで数秒まを置いたあと、再度塞いだ薄い口を斜めに押し開けた。非常に渋々といった感じで不服きわまりないという感情が全面に押し出されている。
「三か月で帰る。きっちり予定通りにな。おとなしく待ってろ。ちゃんと毎日クソして寝やがれ」
 先ほどまでよりいくらかやさしい感じの口調で、でも私にはなぜか弱い声に聞こえた。それが目の前の人のやさしさなのか私に推し量るすべがなくて、私は以降ぴたりと黙った目の前の彼を見つめて同じく黙した。
 驚いたが、困るほどだ。
 嬉しかった。
 なにかいおう。いわないとダメだと思った。そして口を開こうとした瞬間、またリヴァイの携帯が鳴った。大きく舌打ちをしながら電話に出ると、この距離なら私にも声が聞こえてきた。案の定、それはエルヴィンだった。エルヴィンがなにかリヴァイにいってくれたのだ。たぶん、私と、そしてリヴァイのために。
「なんだ。また下らねぇ話なら切るぞ」
 リヴァイは明らかに不機嫌なようすで不満をあらわに電話に出た。エルヴィンがなにをいっているのかはっきりしたことは聞こえないが、助言のようなことをいっているのはなんとなくわかる。……エルヴィンには今度、前に怒ってしまったことを謝らないと。
 なにかいわなきゃと思いながら、時計を見た。ぐずぐずしている暇はない。リヴァイはきっとそろそろいってしまう。
 リヴァイが話していることを幸いに、私は相変わらず睨むような目で目の前の彼を見てやっと口を開けた。
「リヴァイ、……毎日クソして寝る。……から、本当にちゃんと予定通りに帰ってきてよ。約束破ったら枕元に立つ。生き霊として」
 じゃなくて、私はべつにいいたいことがあったはずなのだが、いえなかった。
 ごめん。
 電話をしながらリヴァイが私を見下ろして、少しだけ目を剥いていた。私がこんなにもはっきりと早く帰ってこいとの旨を伝えたのははじめてだったからだろう。恥ずかしかったが、私はただたまらなくて、携帯を耳にあてたまま私を見るそいつの胴体に突撃した。
 固かった。思ったより厚くて、意外と大人なのだと思わされた。背も小さいし顔もあまり大人っぽくないから三十路の中年男に見えないが、案外きちんと中年男だったらしい。それも、引き締まったからだの、いい男じゃないか。びっくりした。
 私は勢い任せに胴体に抱きついた。額を鎖骨のあたりに押しつけて、とりあえず生半可ではかえって恥ずかしいので思いきり締めた。
「オイ……」
 こんなときでもリヴァイはリヴァイのままで、おそらく史上最高に戸惑ってはいるのだろうがあまりそれは伝わらず、「ガキみてぇなことしてんじゃねえクソが」と私によくいうクソガキというフレーズを丁寧に引き延ばして呟いた。
「愛だな」
 リヴァイの持つ携帯から、エルヴィンの楽しげな声が聞こえた。
 なんだ、愛だったんだ。そっか。
 愛だよ。