おやすみなさい愛しい子



―AM3:00。死にもの狂いでペンを走らせていた手を止め、壁に掛った時計を見て思わず溜め息をつく。開け放した窓から吹き込んでくる夜風は何とも言えない温さを持ち、溶けかけバニラアイスのような月も既に消えかかった時刻である。
隣の椅子で船を漕ぐ後輩に目を遣ると、彼もどうやら限界が近いようでうつらうつらしながら減らない書類と闘っていた。幼いながらこんな時間まで頑張ってくれるのは非常に頼もしいのだが、眠気のせいで首をこくこく揺らす彼は帽子を被った重すぎる頭を今にも机にぶつけそうで、見ているこっちがヒヤヒヤして仕方ない。

「…ねぇフラン、3時って深夜?早朝?」

「やだなー、おやつの時間ですよー」

(うわあ…こりゃ駄目だ)

にこにこと笑ってボケてくれる彼が新鮮すぎて逆に怖い。どうやら疲れにやられてしまったようだ。

「もういいよフラン、あとは私がやっとくから早く寝なさい」

「えー、でも」

「頑張ってくれるのは嬉しいけどね。ほら、仮にも君成長期だから」

睡眠時間を削ってまで仕事を頑張る新米の後輩、何て可愛くて健気なのかしら。ここはもう今後早寝したところで身長も伸びないであろう私が、先輩らしく楽させてあげなきゃ。

…そんな純粋な思いやりから出た私の言葉はしかし、次の瞬間、フランの発言によって台無しになる。

「いや、ミーは堕王子からの損害額を落ちなくこの紙に書きつけるまで寝るわけにはいかないのでー」

「………」


説明しよう。
私たちが今向き合っているのは暗殺部隊ヴァリアーの中間決算報告書、つまり1月〜6月までの我々の出費を事細かに明記しなければならない責任重大な書類である。ただしヴァリアーの場合、任務自体にはあまりお金をかけない(隊員個人の能力の高さと、前霧の幹部マーモン氏の努力の賜物である)ので、その出費の大部分がボスと作戦隊長の他愛ないやりとりで破損したものの金額になることは周知の事実。あとは普通に生活費とか邸の維持費、使用人のお給料などが入ってくる。

「損害額って…ベルが何かした?」

「しまくりましたよー、覚えてないんですかー?一ヶ月前ミーの部屋のドアに刺さったナイフなんか未だに抜けないんですよー」

必死に訴えるフランは涙目だ。この子の涙の八割がたが嘘泣きであることは重々心得ているけれども、それでもいじらしく思ってしまう私は大分毒されているのだと思う。

「まあまあ落ち着いて、何か温かい物でも飲まない?」

集中力が切れたまま仕事を続けるのは精神的にも辛いし、下手すれば時間の無駄だ。
私たちが今いる談話室にはちょっとした台所がしつらえられていて、お湯を沸かすためのやかんや高級そうなボーンチャイナのティーセットがある。談笑していてちょっと口が寂しくなったとき手軽にお茶が飲めるという気の利いた造りなのだが、

「…コーヒーでいいよね」

「はい、ブラックでお願いしますー」

残念ながら今の我々二人の場合、ほのぼのとお茶できる状況ではない。一杯の飲み物さえも対睡魔用のお薬と化す。カフェインで嫌でも目を冴えさせようという何処か悲しい作戦だ。
薔薇もようの白いカップに熱々の香り高いコーヒーを注いで持っていくと、フランはふうふう言いながら一息にそれを口にした。

「あち」

「ゆっくり飲みなよ」

ますます恨めしそうに目に涙を溜めているフランに笑いかけ、私もコーヒーを一口含むと、舌を転がる苦味と酸味に心が落ち着く。

報告書の提出期限は今日のAM8:00、今から5時間後。余裕たっぷりという訳ではないが、あとはボスの「コォォォ」の被害額とその度に増える救護班の治療器具代(主にレヴィさんに緊急使用)を足せば終わるはずだ。二人でやれば早いけど、一人でやったからって終わらなくなるような量ではない。

「…フラン、本当に寝なくて平気?辛くない?ここからの作業は私一人でも終わるからもうあがっていいよ」

コーヒーの白い湯気に目を細める彼は、優秀な幹部になった今でも変わらず私の大切な後輩である。
勿論その成長には目覚ましいものがあるし、新米だからこそ人より多くの仕事をこなして慣れなければいけないのは分かってる。
でもやっぱり、普段やる気のない彼が眠い目を擦ってまで懸命に仕事する姿を見ていると、ずっと成長を見守ってきた先輩としてはついつい甘やかしたくなってしまうのだ。そんな私の思いを知ってか知らずか、

「大丈夫だって言ってるじゃないですかー。こう見えて体力あるんですから、子供扱いは勘弁ですー」

早くもペンを握り直し、横目で私の申し出をサラリとかわすフラン。先輩として頼られないのは頼もしい一方でちょっと寂しかったり、なんだか複雑な気持ちだ。

「そ、そうだよね!ごめん、しつこくて」

作業の邪魔をしないように気遣いながら謝ると、フランはちょっと微笑んで「いいえー」と答えてくれた。

「ここまでミーに甘くしてくれるのは名前センパイだけですよー」

「ん…嫌かな?」

「全然、寧ろ嬉しいですー。…ていうかセンパイ、」

そこまで言うとフランは突然ペンを持つ手を止め、くるりと椅子を回してこちらに向き直った。…なんだろう、急に真剣な目になる彼に私は若干動揺してしまう。しかしおもむろに開かれた口から飛び出る言葉は、いつもの毒舌ではなかった。

「“寝てもいいよ”なんて言いますけど、気付いてますー?こんな眠い思いしてまでミーを働かせ続けてる要因はボスや隊長や報告書の期限でなく、他ならぬ名前センパイ自身ですよー」

「…え」

私がフランを働かせてる?どういう意味だろう、私は寧ろ彼を早く寝かしてあげようとしてるくらいなのに。
予想外の台詞に固まる私を無視して、フランは言葉を続ける。

「だって、こんな夜遅くまで名前センパイとふたりっきりでいられるとかめちゃくちゃおいしいじゃないですか…おっとー、つい本音が」

「えーと、それはつまり」

「はいー。ミーがこんな時間まで頑張ってるのは仕事熱心だからとかそんなんじゃなくてー、単に貴女と長い時間一緒にいたいからでーす」

…どうしよう、柄にもなくきゅんきゅん。まあ確かに隊長にこの仕事を任されたとき、いつもの生意気な文句一つなく、二つ返事で素直に了承したフランを見て「何かあるな」とは思ってたけれども。まさかそんな理由でこの時間まで頑張ってくれてたとは…。

「ミーはセンパイすきなのでー。仕事自体は最悪ですけど、一人で寝るくらいなら貴女と二人でオールしますー」

「いやいやオールはやめとこ、明日しんじゃうから」

なんなのこの子。急に甘えちゃって可愛いな、素直な後輩ってレベルじゃないからね!……ああでもこれも策士な彼の作戦のうちだとすれば、私って何てちょろいんだろう。軽く自己嫌悪。今までだって何度となくこのカエルさんに調子狂わされてきた。もう年下に心臓ドキドキさせられるのはごめんだ。

「…やっぱりちゃんと寝た方がいいよ、その方が私喜ぶよ」

「えー、冷たい、センパイ冷たいなー」

「や、全然そんな冷たくするつもりは…フランの事を思ってこそ寝るように勧めてるんだよ?」

「むー」

本当に私としては可愛いと思うからこそ甘やかしているだけなのだが、当の後輩は納得いかない様子でペンをいじっている。え、私何か悪いこと言った?

「…フラ、」

「まちがってますー」

「なんですって」

間違ってるって君、後輩を可愛がる先輩の気持ちをないがしろにする気?

「…フランくーん、ちょっと聞き捨てならないんだけど。私はこれで十分愛をあげてるつもりよ」

「あー、怒んないで下さいよー。…センパイはまちがえてるんですー、ミーの甘やかし方を」

「なっ…じゃあどうすればいいって言うのよ!」

勢い込んでついそう尋ねてしまった私は、瞬間ハッとなって口を押さえた。まずい、これはまずい。フランの口は端っこが緩んで軽く上がっている。
(…やられた)
これは確実に「正しい甘やかし方」という名目で私がフランのわがままを聞き、その通りにしなければならないパターンだ。
何か変なお願いをされそうで凄く危険を感じるのだが、自分から進んで尋ねてしまった手前今更どうすることもできない。

「やっぱり名前センパイって単純なんですねー、カワイー」

「い、いいから早く教えて!」

そんな照れられるとこっちが恥ずかしいんですけどー、とか満面の笑みでのたまう彼を誰か止めて下さい。情けないったらもう…こうなったら年上とはいえ完全にフランのペースだよちくしょう!

半ばヤケになって答えを待つ私に余裕の表情を向ける後輩フラン。ああ、また奥から早鐘が迫ってくる…心拍数の上昇なんて認めたくないのに。

「…添い寝して下さーい」

うん?

「ごめん、今空耳聞こえちゃったみた「ミーは本気ですよー」…え」

そいね、そいね、

………

「添い寝!?」

「くどいですー」

いや、何でこの子「鉛筆かして」みたいなテンションでそんなこと言えるんだろう。添い寝しろなんて言われた方はやたら恥ずかしいのに、言った本人であるフランは何事もなかったように涼しい顔で返事を待っている。落ち着け、あくまでクールに対応するのよ。

「確かに私から見ればフランは子供だけどさ…添い寝が必要な年齢はもうとっくに過ぎてるよね」

「つれないなー。いいじゃないですか、可愛い後輩からのお願いのひとつやふたつー。ミーは名前センパイの温もりを感じつつ安眠したいんですよー」

「(可愛いっ…いや、華麗にスルーだ!)それにさ、ここで二人とも寝ちゃったら仕事終わらないよ?」

「じゃあ明日の朝一緒にボスに怒られましょー。例えその場でかっ消されることになっても、貴女とならー」

「嫌だよ私まだ生きたいもん」

「そんなー」

頑な私の拒否に悲しげな声を上げるとフランは気だるくカエルの帽子を外し、本や書類が置かれたままの机に両手を広げて突っ伏した。先刻乾いたばかりの瞼にはまたもや水滴がじわっと潤み、長い睫毛をしっとり濡らしている。

「センパイが意地悪するからミーもう駄目ですー…」

小さくそう呟くと綺麗なエメラルドグリーンの髪が揺れ、フランは頭を回転させてそっぽを向いてしまった。

「そ、そんな顔したってもう騙されないんだからね…フラン?」


余程疲れていたのだろう。驚いたことに、私がもう一度顔を覗き込んでみると、机に頬をくっつけたフランは電池が切れたように眠りに落ちていた。白い頬には涙が伝った後がうっすら光っている。

「…やっぱり、眠かったんじゃない」

こんなになるまで眠いのを我慢して、私と一緒にいたいなんて理由で起きてくれていたフラン。その子供らしくも疲れきった寝顔を見ていたら、恥ずかしいからといって添い寝を拒んでしまった自分に急に後悔の念を感じた。せめてこの子が眠りにつくまでだけでも、ちゃんとしたお布団に寝かせて隣で見守っててあげれば良かったな。

「お疲れ様、よく頑張ったね。…大好きだよ、フラン」



それから私は華奢なのにしっかりした重さのある体を毛布で包み、一番近い私の部屋のベッドまで苦労して運んだ。ついでに途中だった書類も部屋に持ち込み、フランの眠る横で一人、一刻も早く完成するよう作業を進める。

(終わったらすぐにベッドに入ろう)

そして目覚めたら、拗ねた可愛いお寝坊さんへ一番に“おはよう”を言ってあげなければ。


おやすみなさい愛しい子


(名前センパイ、なんだかんだで昨日一緒に寝てくれたんですねー。しかもセンパイのベッドでー)

(き、昨日はフランが頑張ってたから!特別!…む)

(一日はおはようのキスからですー)


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