名前を呼ぶ、淡い唇

楽しそうにしている椿に、嫌な思いをさせたくない。
そいう思いもあるが、聞かなければならないことがある。
ごめんね、と謝ると、椿の顔色が暗くなった。
けれど、それも一瞬のことで、時雨が優しく微笑めば、ぎこちなく頷いた。


「家はどこにあるかわかる?」

頷く椿を見つめながら、紙とペンを渡す。
時雨の聞いたことにはすべて答えたいのか、椿は時雨の顔を見た。


「書いて良いよ。椿の好きなように」

椿は起き上がるとテーブルの上でペンを走らせる。
時雨も起き上がり、椿の後ろからテーブルに視線を馳せた。


“たぶん、ひがしどおりのさんちょうめのご”

“帰らなくちゃだめ?”

「ううん。ごめん、不安にさせたね。だけど、きちんとしたいから」

“きちんと…? あったばかりなのに、どうしてやさしくしてくれるの?”

「そう、きちんとしたい。会ったばかりなのには、俺にもわからない。ただ、椿と一緒に過ごしたいって思っただけだよ」

“いっしょに?”

「そう。それに俺には色々余り過ぎてるからね」

“あまりすぎてる?”

「はは、椿はどうしてばかりだね」

“しりたいから。しぐれさんのこと、しりたいの”

「そっか、嬉しいな。…部屋とかお金とか。まあ時間は少し足りないけれど、椿にあげるくらい沢山あるよ」

時雨が笑いながら答えると、椿はペンを止まらせた。
笑った時雨に、椿も小さく口角を上げて、すぐにペンを走らせる。


“にのまえさん、ありがと”

「どういたしまして。お願いがあるんだけど…」

そういって時雨が意地悪げに笑うのに、椿は不安そうに時雨を見つめる。
今にも隠れてしまいそうな様子の椿に時雨は軽く笑った。


「にのまえさんっていうのはやめて。時雨でいいよ」

“しぐれさん”

そう書くときに、微かに椿の唇がゆっくりと動いた。

しぐれさん

と、桜色の唇が綺麗に震える。


昼はごろごろして、夕方には2人で夕飯を作って食べた。
椿は見るものすべてに関心を示し、ぎこちなく触れてみたりする。

今も同じようにダイニングにある固定電話に興味を示している。
電話を見たことが無いのか、それともかけたことが無いのか、電話に視線を移す。
触って良い、というまで決して触らなかったし、時雨に触っても良いか、と聞くことも無い。
けれど、とても電話に興味を示していた。


「電話、してみる?」

と、問いかけてみると、椿はこくんと頷いた。
今日一番早い、良い返事。


「数字が書いてあるボタンがあるでしょ? そこ押して…そう」

細い指が拙い仕草でボタンを押していく。
かけた先は時雨の携帯で、椿は緊張してるのか手が震えていた。
呼び出し音が鳴るのを聞いて、興奮したように体を震わす。
時雨はそんな椿を笑った。

時雨の携帯がなり、もしもし、と出てやると、椿は嬉しそうに時雨のほうを向く。
息を吹くのを通り越して、ひゅーと音を立てていた。


「切って良いよ」

そういうと、受話器を置いて時雨のそでを躊躇いつつ、きゅっと握る。
それからぎこちなく笑う。


「椿」

椿が愛らしくて、時雨は思わず強く抱きしめた。
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