鼻先へのキス
「で、なんのご用でしょうか」
汰絽はうんざりとしたようにそう問いかけると、ため息をついた。
夏休みのことを思い出して、少しだけ嫌な気持ちになる。
風太に心配をかけてしまったことも気がかりだ。
もうすっかり治った傷があった場所を思わず撫でる。
「この間、西のとこに連れてかれたって聞いた」
「…嫌なこと、聞いてきますね」
「で、今回も無事に連れてこられたけど、危機感がないなァ、お前」
「連れてきてよくそんなこと言えますね。で、なにか僕に用事があるんじゃないんですか?」
「用事? あー…、用事な」
もう、と呟きながら汰絽は置かれたコップに手を伸ばした。
ひんやりとしたコップに触れた瞬間、その手を掴まれソファーに押し倒される。
情けない悲鳴が口から零れ、東条が軽く笑うのを聞いた。
東条の大きな手が汰絽の頬に触れた。
押えられていないほうの手で押しのけようとするがびくともしない。
体格差は風太と同じくらいなのに、目の前の男が風太よりもずっと大きな気がしてゾクリとした。
頬に触れていた手はゆっくりと下がっていき、Yシャツをはだける。
白く日焼けを知らない肌があらわになった。
「やめて」
「やめろって言われてやめる男がどこにいるかね」
むっと口をつぐんだ汰絽に東条は笑いながら、顔を近づけてきた。
薄い唇が軽く開き、汰絽の鼻先に口付ける。
「や、めてくださいっ、なにしてんですか!」
「味見」
「はあっ?」
声を裏返しながら叫んだ汰絽はぎゅっと拳を固く握り、東条の頬を殴りつけた。
当たると思わなかったし、東条もまさかこんな小さなのに反撃されるとは思っていなかったのか目を白黒させる。
東条が気を取られているうちに、足の裏で東条のお腹を押してソファーから脱出した。
「やめてくださいよっ、家族でもないのに…、きっ、キスとか!」
「これくらい、犬でもするだろ」
「あなたは犬じゃないでしょっ」
悲鳴交じりに叫ぶ汰絽に東条は笑いながら、汰絽を押し倒した時に倒してしまったコップを立てる。
汰絽は警戒するように東条を見ながら、ソファーの横に置いた鞄を取ろうと少しだけ近づいた。
「もう! 何がしたいんですか! やだ、この人嫌いっ、大っ嫌い!」
「子どもみたいわめくな」
「僕、めったに、むかついたりしないんですけど、むかついてます!」
「あー、わかった。悪かった、悪かった」
悪びれた様子もなく行ってくる東条に汰絽は余計にむしゃくしゃして、地団太を踏みそうになる。
もう高校生で、むくの保護者。
大人な対応を心掛けなければ、と心の中で思い直し、ぐっと拳を握った。
「色気もへったくれもねえな。顔は可愛いのに」
「…」
「春野もこれじゃァ、手も出せねぇな。お前、春野とセックスしたか」
「は、はァ!?」
セックス、という言葉に顔を真っ赤に染めた汰絽に、東条はお、と驚いてからにやにやと笑う。
腹立たしい顔にむっとしつつも、咳払いをして鞄をとる。
座れば、と東条に言われたがぶんぶんと首を振ってそのまま距離を取った。
「白い兎ってのは、まんま春野のことだったのか」
「…風太さんの、チームの名前?」
「ああ。誰が呼んだか知らねえが、ぴったしなんじゃねえの」
「…?」
東条がカラカラと笑いながら、自分の分のお茶を飲む。
憎たらしい。
この残暑の中で出された冷えたお茶が憎たらしい。
「俺のとこ、なんて名前か知ってるか」
「知りません」
「イーストナイトな」
「東の騎士?」
「違う。東の夜」
「ふうん」
興味なさそうな汰絽の声に東条は、もう一度笑いジーンズのポケットから煙草を取り出した。
ライターで火をつけ、吸い込む姿に思わず眉をしかめる。
「春野の趣味がいいが、今回は俺の範囲外だなァ」
「おっしゃってる意味が理解できないんですが」
「こっちの話だよ。お前は色事には疎いみたいだからな。野暮な詮索はもうやめた」
意味が分からない、というようにため息をついた汰絽の足に小さな衝撃があった。
わ、と声を漏らすと、足元にむくがいる。
汰絽にうんと手を伸ばしてきて、汰絽は小さく笑った。
「あめ! くれた! さくら!」
嬉しそうに汰絽の前に出した小さな飴。
さくら、と指さした方には五十嵐がいた。
汰絽の方を向いて、すみません、と謝る姿に、この人は常識のある人だなと思わずほっとする。
汰絽は五十嵐に礼を告げてからよかったね、とむくの頬にキスをした。
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