可愛いわがまま
黒猫に入ると、夏翔が心配そうに声をかけてきた。
何か落ち着ける飲み物を作ってくれ、と頼み2階に上がる。
汰絽を抱きかかえたままソファーに腰を下ろし、汰絽の背中を優しく撫でた。
「ごめんな、怖かっただろ? 配慮できなくて悪かった…」
しがみ付いた汰絽は離れようとせずに、首を横に振って否定だけする。
困ったような風太の声にもこたえずに、汰絽は鼻をすすった。
落ち着くまでこうしていたい。
風太の体温が心地よい。
耳を左側に寄せると緩やかな音が聞こえた。
「…ごめんなさい」
汰絽の小さな声が聞こえてきて、風太は背中を撫でていた手を止めた。
それから、汰絽の髪を梳く。
「なんで、お前が謝るの? 俺のせいだろ」
「ごめんなさい、風太さんが喧嘩するの…、いや」
「ん?」
「喧嘩しないでって言えない。でも、喧嘩するのいや」
「…汰絽?」
風太の困惑した声が耳に入ってくるけれど、押えきれない。
大きな喧嘩がありそうっていう言葉で煽られた不安。
最近一緒にいられなかった不安が水滴になってコップからあふれ出しそうだった。
表面張力のように張った生活の一部だから、口出しできないという気持ちが、さっきの光景で保てなくなって溢れて零れだしてしまう。
「一緒にいれないの、すごいさみしかった。…でも、でも、風太さんがやりたいことだから、やめてって言えない!」
「汰絽、ごめん」
「怪我しないでほしい、そばにいて欲しい、そばにいるって約束したのに…!」
言ってしまった、とでも言いたそうな顔を上げた汰絽の表情に、風太はぎゅっと心臓を締め付けられる感覚を感じた。
汰絽の緑色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれているのを見て、心臓を握りしめられているように思う。
可愛いとか、愛おしいとか、いろいろな感情が押し寄せてきて、風太はごめん、と大きな声で謝った。
「ごめんな」
その言葉を告げる声色から零れてくる感情の欠片を感じて、汰絽はぼたぼたと零れる涙を止めることが出来なかった。
ああ、自分は風太のことを怖いと感じたのではなくって、知らない風太を見てどこかに行ってしまうんじゃないかって怖くなっていたんだ。
そのことに気付いて、風太の体温を感じていると、早まった鼓動がおとなしくなってくるのを感じる。
「…わがまま、言って、ごめんなさい」
遠慮がちなその声に、風太はいや、と答える。
汰絽の柔らかな髪に指を差し込んでぎゅっと強く抱きしめた。
「…今回のが終わったら、抜ける」
「え?」
「今回のが終わったら、チーム抜けるから」
「…え、そんな…だめ」
「なんで? もともと3年になったら抜ける掟みたいだったから、少し早い引退だ」
「…それで、いいんですか」
汰絽の困った声に風太はああ、それでいいよ、と吐息交じりに答える。
冷たくなっていた汰絽の身体が温かくなってきているのを感じて、ほっとした。
子ども体温じゃない汰絽は、いなくなってしまいそうで怖かった。
「チームも大事だけど、お前の方が大事だから」
そう呟くと、汰絽がかくん、と頭を揺らした。
泣き疲れてしまったようで、寝息を零している。
ぎゅっとしがみついている腕は離せそうになく、風太は抱きしめたまま汰絽の髪に口づけた。
「あー…可愛い」
その可愛いという単語ひとつからいろいろな感情が零れている。
風太は腕の中の存在が愛おしくてたまらなく感じ、ぎゅっと抱きしめた。
ノックの音に風太はああ、と返事をした。
扉を開けて入ってきた夏翔は透明の耐熱グラスに入ったホットレモンをテーブルに置く。
冷房が効いていて温かい飲み物がちょうどよさそうだ。
風太にはアイスコーヒーが出される。
「…大丈夫か」
「ああ、解決した。…てか何こいつ、めちゃくちゃ可愛い。押えきれん」
「…は、お前らしくないこと言うな。腹筋が崩壊しそうだ」
「うっせ」
小さな声で話しながら、すやすやと眠る汰絽の髪に口づける。
そんな風太を見て、夏翔は苦笑いをした。
「寝てるからってやりたい放題か」
「家族の特権だっての」
「はいはい。ま、お前みたいなのに汰絽ちゃんはいい薬だな」
「あ?」
「何でもねえよ。…今日むくちゃん見てやろうか」
「いや、いい。ふたりっきりで一晩はきつい。俺は自分の理性が糸より細いことを散々思い知っている」
「わかったよ」
夏翔が頭をかきながら、言うのを聞いて風太は軽く笑った。
それから、アイスコーヒーを飲んでから、汰絽の頭を撫でる。
ふわふわの蜂蜜色の髪の毛が指の間をすり抜けるのさえ、愛おしく感じた。
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