そばにいて欲しい
太陽がちょうど真上に昇った頃、汰絽は黒猫の小さな厨房に立っていた。
隣に立っている夏翔はせっせと材料を並べて確認していて、汰絽はレシピをじっと見ている。
テーブルに乗せられているのは風太と美南が買ってきた物で、買ってきたふたりは入口で眺めていた。
「どの型使いますか?」
「これだな。これでふたつ。なんせ人数多いからなぁ」
「はいっ」
ケーキの型とボールを渡されて、ふわっと笑った汰絽に夏翔も笑い返した。
それから汰絽の手際の良さに圧倒された。
オーブンの準備も、卵を割る仕草も滑らかで、スピードがある。
「たろ、ひとつはあんまり甘くないのにしてくれるか」
「はい、風太さん甘いのだめでしたっけ」
「ああ」
「今度お菓子作るとき気を付けますね」
「頼む」
「あっ、井川さん、卵溶いておいてください」
おーっとゆるい返事を聞いてから、汰絽は風太の方を向いた。
美南はもうソファーで携帯をいじっていて、風太はそこから動きそうにない。
溶き終わった卵に砂糖を混ぜてハンドミキサーで混ぜていく。
手際のいいふたりを眺めながら、携帯を確かめた。
杏から連絡が来ていて、風太は折り返す。
「なんだ」
『あ、ごめんねー急に! ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
「あ?」
『最近、東条と接触した?』
「いや」
『そう、ならいいんだけど。前に話したけど…汰絽ちゃん、気を付けてね。東条あれだから、はるのんに絡むのが趣味なんだから』
「あいつか…。めんどくさいな」
『東条のところが嗅ぎまわっているみたいだから』
風太は、ああ、と返事をしてから、汰絽の方に視線を移した。
夏翔と笑いながらケーキを作っている姿はとても輝いて見える。
生地はもう作り終わって、後はオーブンの予熱が終わるのを待つだけだ。
その間にデコレーション用の果物を切り皿に入れる。
「あ、苺が足りない」
「本当だ、風太頼んでいいか」
「ああ」
「蜜柑もお願いします! 缶詰で」
風太は返事をしながらキッチンを出た。
可愛らしいベルの音を鳴らしながら、風太は黒猫からスーパーへ向かう。
ベルの音を聞いた汰絽は、クリームの支度にとりかかった。
パックからクリームをボールに移し替えてアイシングしながらミキサーで混ぜる。
夏翔はオーブンを覗いて冷蔵庫から追加の生クリームの用意を始めた。
「汰絽ちゃんさ、風太と暮らし始めてどう」
「…楽しいですよ。とっても」
躊躇いがちにそう答えた汰絽に、夏翔は苦笑した。
思っていたものとは違う表情に、汰絽はドキリとする。
ミキサーを止め、泡だったクリームをじっと見つめた。
「元の生活のほうが、良い?」
「いえ、それは、…あの…でも」
でも、と呟いた声に夏翔は顔を上げた。
俯いていた汰絽も顔を上げ、少し困った表情で話す。
ぽつりと話す声はとてもか細かった。
「やっぱり…、迷惑なんじゃないかなって…」
この小さな声が素直な気持ちを伝えていることに気付き、夏翔は始めかけていた料理をする手を止める。
素直に喜んで、楽しんで、子どもらしい気持ちがあるけれど、それよりもそんな気持ちを押えてしまう、おとなな考えがあるのだ。
遠慮深いその気持ちがいじらしく思え、夏翔はエプロンで軽く手を拭き汰絽の頭を撫でた。
「いい子だな、汰絽ちゃんは。そう思えることが、きっと風太の汰絽ちゃんの好きなところなんだろうな」
「え?」
「きっと風太は迷惑だなんて思ってないよ。傍にいて欲しいんだろうな、あいつきっと」
夏翔の言葉に、汰絽はぽかんとした。
それからわからない、というように、眉を下げる。
汰絽は夏翔の笑顔が優しくて、少しだけ泣きそうになってしまった。
「ただ、風太が傍にいて欲しいって思ってるんだから、迷惑だなんておもうなよってこと」
「傍にいて欲しい…」
「そ。そうじゃないと、ここに連れてこないだろうから」
「黒猫ですか?」
「ああ、ここ、あいつの気に入っている場所だろうから」
夏翔の言葉になんだか救われたような気がして、汰絽はぺこりと頭を下げた。
出来上がったクリームを冷蔵庫に片づけて、作業を再開させる。
「どこか、僕と似てるんでしょうか。風太さんは」
「どうして?」
「…僕も、さみしいから。風太さんも、きっとさみしい」
「…そうだな、あいつは言わないけれどね」
夏翔の軽い笑い声が、汰絽の気持ちを軽くさせた。
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