鼓動
放課後の図書室。
陽が落ちるのも少し早くなった頃。
有岬は井上と過ごす時間が愛おしくて仕方がなくなっていた。
図書室にはいると、いつもの…有岬と井上が一番最初に2人で座った席に腰を掛けている井上が目に入った。
陽の光があたり、井上のミルクティみたいな色の髪が輝いている。
綺麗だなぁ、と眺めていると、立っている有岬に気づいた井上が手招きをした。
静かに、少し急いで井上のもとに行く。
2人で過ごす時間が増えていく中で、変わったことがひとつ。
井上が有岬を“桃千”ではなく、“有岬”と呼ぶようになった。
有岬、と呼ばれるたびに、胸が暖かくなる。
これほどまでに自分の名前が愛おしくなることなんて、今まで一度もなかった。
井上が何を読んでいるのか気になって、井上の腕を指先で叩く。
それから本を指さして、こてん、と首を傾げると、井上が本の表紙を見せてくれた。
それは有岬が先日借りて読んでいた恋愛小説だった。
急に気恥ずかしくなり、頬が真っ赤に染まっていく。
思いがけない有岬の反応に、井上は自分の頬も少し熱くなったのを感じた。
「…有岬が読んでいるのが気になって。いつも楽しそうに読んでるから」
照れたように笑う井上に、有岬の頬はなおさら赤く染まった。
真っ赤になった有岬を見て、井上は今度は面白そうに笑い声を上げる。
照れを隠すように、有岬は本棚を指さして、立ち上がった。
有岬が読みたい、と思う本は大体本棚の一番上にある。
今回も例に漏れず、本は一番上の棚にあった。
可愛らしい背表紙に思わず笑みが漏れる。
井上に取ってもらおうか、とそちらを向くが、井上は本に集中していた。
つ…と爪先立ちをして、その背表紙に触れる。
少し嫌だが、本の下に爪を入れて、くいっと上を向かせた。
そのまま、指の腹で引っ張れば、手に届く範囲に入る。
なけなしの力で本を一生懸命引っ張るが本は一向にこちらに近づいてこなかった。
台、まだ入れられないのかな…っ、と思いつつ、本を引っ張ると嫌な音が聞えた。
落ちてくるっ…!
そう思い、きゅっと目を瞑った。
「有岬…っ!」
一瞬恐怖とかいろいろのもので真っ暗になった。
いつまでたっても襲って来ない衝撃に、有岬はゆっくりと目を開ける。
ぎゅっと目を瞑っていたため、少しだけ視界がぼやけた。
はっきりとしてきた意識の中、感じた体温。
抱きしめられている。
温かい体温が有岬を包み込んでいる。
目の前に見えるのは、真っ白な…井上の白衣だ。
耳元で速い鼓動が鳴っていた。
ドッドッドッド、と聞こえる早い鼓動に、有岬は落ち着かせるように息を吐き出した。
痛くなかった、怖かった、そう理解するのと同時に、井上が助けてくれた、と理解する。
井上は有岬が大丈夫か確認しようと、腕の力を抜こうとする。
しかし思うように力が抜けない。
腕の中の有岬が息をつくのを感じて、ようやく腕の力が抜けてきた。
「大丈夫か? どこも痛くないか?」
不安そうに訊ねてくる井上に有岬はそっと井上の胸に手をあてた。
「ん? …俺のことを心配しているのか?」
こくり、と返事。
胸元にハートの形を作り、有岬はは・や・い、と唇を動かした。
「鼓動が…。あぁ、驚いたから。大丈夫だよ」
よかった、と有岬がふわりと笑う。
その優しい表情に、井上はああ、と息を吐き出した。
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