静かな涙

当時のことを思い出す様に目を瞑った夜月。
真っ白い肌が、生気を感じさせない。
真っ白な細く角ばった指先がぎゅっと手首を握り締めていた。


「当時、小学2年生だった少年は、生まれつき体が弱かった。
 そんな彼は両親に深い愛情を注がれて育てられていた」

そう言うと、夜月が立ちあがった。
窓に指先を触れさせ、そのまま鍵を開ける。
窓を開くと、秋と冬の間の風が応接室に吹いた。


「その子は、…」

最後まで言えずに黙ってしまう。
そんな井上を軽く鼻で笑い、夜月は窓枠に軽く腰をかけた。


「小学2年生の冬。体調もようやく良くなり、初めてひとりで学校に向かった時のこと」

ぶわりと風が吹きあらす。
ミルクティ色の髪が顔にかかり、目を細めた。


「彼は、心ない人間に誘拐された。
 金銭目的の犯人は、身なりのいい彼に目を付けた。
 泣き叫ぶ彼を寒い小屋に入れ、小さな体にたくさんの傷をつけた」

淡々と語られる哀しく、許されない、罪の話。
夜月の腕が小さく震えているのが見える。
必死にその腕を掴む左手には血管が浮き上がっていた。


「彼は帰ってきてから、家族にも酷く怯えていた。
 沢山の愛情を注いでいた両親は、数日にも渡る犯人との交渉で酷く疲弊していた。
 彼らは返ってきた彼を抱きしめなければいけなかった。
 けれど、彼らにはそれができなかった」

息が詰まった。
事件の終わりはニュースで語られた。
今、井上が聞いている話は、“事件の後の話”。
何もなかったかのように語られるこの話は、少年のその後の話だ。

息をつめて、眉間にしわを寄せる井上を見て、夜月は苦笑した。
そっと風を入れていた窓を閉めて、息をつく。


「殴っては抱きしめて愛を囁く。…何度も」

不意に、頬に冷たいものが伝った。
塩味がするそれは、井上の心を表している。
零れ始めたものに、井上は気付いていない。
夜月はそんな井上に、自分の頬をとんとんと叩いて見せた。
ようやく気付いた井上は、白衣の袖でそっとその涙をぬぐった。


「抱きしめられて、殴られて、また抱きしめられる。
 歪んでしまった愛の中で、彼は話すことをやめた。
 彼は疲れてしまったんだ」

話すことはもうない。
そう言うように、夜月は黙った。
ソファーに腰掛けた井上は頭を抱えた。
ボロボロと零れおちてくる涙を止めるように、両手で顔を覆う。
重力とともに床に零れおちる涙は止まらない。


「君が泣くことはない。…有岬は今が幸せなのだから」

苦笑する夜月はそう言うとコートを羽織った。
いつの間にか部屋から出ていた校医が部屋にはいってきたのを感じる。


「本当は君に、有岬に近づくなと言いにきた。だが、その必要はないようだ」

かすかに震えている井上の背中にそう告げる。
夜月は応接室の扉を閉めた。
校医も一緒に応接室を出て行ったのだろう。
井上は、誰もいなくなった応接室で、静かに涙をこぼし続けた。
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