過去に触れる

「井上先生、お電話です」

「はい」

電話を受け取り応答すると、穏やかな声が聞こえてきた。
この学園の校医だ。


「どうしましたか?」

『あ、井上先生。今日、午前中授業ありますか?』

「午前中はありませんよ」

『なら、良かった。今から応接室に来てくれません?』

わかりました、と返事をし、井上は職員室を出る。
クラスを受け持っていない教師は、どちらかと言えば暇な時間が多い。
時間がつぶせるか、と応接室へ足を向けた。



「失礼します」

応接室に入ると、見覚えのある人物がいた。
黒いスーツに漆黒の髪、青い瞳、冷たい…。
有岬の兄だ。
思い出したかのように、有岬の可愛らしい顔が浮かぶ。
やけに憂鬱そうな表情は、この人物が作り上げたのだろうか。
不躾だが、井上は有岬の兄…桃千夜月を眺める。


「こんにちは。井上先生」

「こんにちは…えっと…」

「桃千夜月。有岬の兄です」

おかけください、と校医に言われて、井上は夜月の前に座った。
彼は井上のひとつひとつの仕草を確認しているようだ。
不躾な視線はあちらもか、と井上は夜月を眺めるのを続ける。


「先生は、化学専攻らしいですね」

「ええ。生物のほうがあまり得意ではないので」

「そうなのですか。…ああ、今日お話しようと思っていたのはこんなことではないのです」

笑っているが、目は笑っていない。
冷たい人だな、そう心の中で夜月の印象を決めた。


「桃千さんは、今日は仕事はお休みで?」

「ええ。私の他にも秘書がいるので」

へえ、と相槌を打ち、校医が出したお茶をすする。
目の前に座る夜月は、窓を眺めていた。


「…有岬の体のことは知っていますか」

「体が弱い、ということですか?」

「ええ。病弱で、話すことができない、かわいそうな子」

つけ足された言葉に、愛情がこもっているのを感じる。
夜月が有岬を深く愛していることが十分に伝わってきた。
夜月の次の言葉を待つようにじっと見つめる。

「失声症になった原因のことは聞きましたか?」

「…いえ。本人が話したくなければ、話さなくていいと思ってましたので」

失声症は心因的な原因が多いと聞いていた。
井上はその旨を伝え、夜月の反応を待つ。
夜月は窓から視線をそらさずに、ずっと外を眺めている。


「9年前の誘拐事件、覚えてますか」

9年前の誘拐事件。覚えている。
穏やかで、平和なこの土地を震撼させた事件だった。
当時は学生だった自分も、テレビにかじりついてニュースを見ていたのを覚えている。
確か、金銭目的の犯行で、数週間にも渡ったものだった。
誘拐されたのは当時小学2年生の少年。
持病の喘息を煩わせて病院に入院したとも報道されていた。
井上は苦い思いをのみ込み、夜月に返事をする。


「覚えてます。全部…」

窓の外を眺める夜月の表情は変わらない。
有岬よりも濃い漆黒の髪が窓からさした日の光で輝く。
その様子に悪寒が走る。
夜月の表情は変わらないのに、瞳の色がやけにぎらぎらと燃えていた。
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