視線
「あ、今日、先生お休みですって」
ふたつ隣の席の英語教師から告げられ、井上は返事をした。
有岬のクラスの先生が休みと聞いて、少し気合を入れた。
今日が井上が有岬のクラスで初めて行うショートホームルームになる。
少し嬉しい。
「起立…」
あいさつを終え、出席を取る。
休みの生徒はいないようで、井上は有岬を探した。
一番窓際の席。
暑くもなく、寒くもない、丁度いい席だ。
眠そうな顔をした有岬は井上と目が合うと小さく微笑む。
今日の予定を説明し提出物を集めている途中、教室の扉がノックされた。
「じゃあ、ショートはこれで終わりで。各自授業に移ってくれ」
解散を告げ廊下に出ると、先ほど池太が休みだと教えてくれた教師がいた。
どうしたのか訊ねると、少し困ったように声をひそめて要件を告げる。
「桃千君、保健室に来てほしいそうです」
「桃千ですか? わかりました。連れて行きます」
「すみませんね」
一礼してから去っていく教師から視線を離し、教室内で着替える生徒を見る。
周が着替えてる隣で、本を出している有岬が目に入って声をかけた。
椅子を丁寧にしまった有岬が少し急いでこちらに来る。
なんでしょうか、とこてんと傾げられた首に軽く笑った。
「ああ、保健室来てくれって。ついていく」
頷いた有岬と一緒に保健室に向かう。
井上の隣を歩く有岬はなんだか憂鬱そうだ。
そっと、小さく揺れる頭を撫でる。
ぱっと顔を上げた有岬はこてんと首をかしげた。
「有岬の髪の毛はさわり心地いいなあ」
嬉しそうに笑った有岬に頬が緩む。
教室からすぐの保健室。
ノックをしてから有岬の背中をそっと押す。
ひらひらと振られた手に手のひらを振り返した。
ゆっくり閉められる扉から、少し見えた保健室の中。
保健医の白い白衣と、黒いスーツが目に入った。
有岬とよく似た漆黒の髪に、青い瞳の精悍な顔つきの男性がいた。
おそらく、自分と同い年だろう。
そんな風に考えていたら、その人物は井上を鋭い視線で見つめていた。
「あ、井上先生。桃千君、連れて行ってくれましたか?」
「はい。…あの来賓はどなたですか?」
「え? あぁ、あの方は桃千君のお兄様ですよ。あと、この学園の理事長の秘書の方です」
「兄?」
「そうですよ。月に一度くらい、面会…と言いますか。よく来てますよ」
「へえ…」
―…あの鋭い瞳の男は、有岬の兄だったのか。
有岬と彼の顔を比べても少しだけ似ているところがあるくらいだ。
もっとも、しっかり彼の顔を見たわけではないのだけど。
井上はぼんやりと考えながら、荷物をまとめた。
これから化学室で実験の授業だ。
「沖田!」
化学室に向かう途中ですれ違った周を引きとめた。
少しだけ嫌そうな顔をした彼に苦笑してから、井上は周に有岬のことを尋ねた。
「う…、桃千の事なんだけど」
有岬、と言いかけて、苗字に言いなおす。
眉間に皺を寄せて不快そうな顔をした周はなんでしょうか、と不機嫌な声を出した。
「あのさ、父兄の方が面会に来てたけど…、体調悪いのか?」
「ああ、知らなかったんですか?」
「悪いけど、少し教えてくれないか?」
「構いませんけど。…月に二度、体調チェックとかかねて会いにきてるんですよ」
「そうなのか」
「それだけですか?」
「ああ、すまない、引きとめて」
いえ、大丈夫です。
と、周の返事を聞き、井上は礼を告げて化学室へ向かった。
そんなに体が弱かったのか、有岬に対する考えが少しだけ変わる。
落ちてくる本から守った小さくて細い有岬の体を思い出した。
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