20141212 いそかわりょうあん ・ジャパンナレッジより。 五十川了庵(いそかわりょうあん)1573〜1661 江戸時代前期の医師。天正元年10月25日生。曲直瀬正盛にまなぶ。細川興元のもとで「太平記」を,徳川家康の命で「東鑑」を刊行した。松平忠輝の侍医をつとめ,のち京都で開業。万治4年1月29日死去。89歳。京都出身。名ははじめ春昌,のち宗知,春意。(日本人名大辞典) 京医者;紹継門、内田黙庵/曲直瀬まなせ一渓/吉田宗恂門、1601細川興元に随行;豊前小倉住/02「太平記」出版、家康の命;「東鑑」刊、1603信濃細川忠輝家臣、帰京;医業/詠歌、「薬石異録」「鍼灸要略」(日本古典作者辞典) 1601 慶長6 興元にしたがって小倉入り、12月中旬に興元出奔 1602 慶長7 私的?に太平記を活版で擦る。 1603 慶長8 ↑の太平記をベースにまた編集。これが慶長版活版太平記。活版のものとしては最初のもの。この年に忠輝んとこいってる 1616 忠輝が改易したら京都に戻って開業 この五十川さんの姪っこと角倉了以が夫婦だったようで。ほかにも親族が角倉一族と関係持ってたりするので結構力もってたのでは。 興元が談伴衆だったと聞いて、まず一番にそこまで昇進できるほど知識と交友あったん??と思ってたんですけど、五十川さんつてでいろいろと上方の情報入れてたんじゃ?と考えるとすっきりするような。 あとやっぱり活版印刷機は興元がキリシタンつながりで手に入れて、技術提供したりあげたりしたのかな〜と。 |