20170822 興元の家族A



以前まとめたものから大分期間が空き、その間にわかったことも多々あったので改めてまとめようかと思います。
間違っていたり情報があったらまた教えていただけると幸いです



◆正室:いと(沼田直次娘、誓光院隠誉妙安)

『一色氏の史跡を追って 旧加佐郡の山城址を主に』(岡野允氏著の『丹後の山城より』)に掲載されている若州熊川城主沼田氏系譜を参考にしました。この系譜の調査協力者に熊本県史編纂室の方もいらっしゃるようです。
上記の系譜を確認すると沼田直次の娘として記載されています。丹後の佐野城城主だったようですが、旧城主や郷民の反乱によって戦死したようです。
いとは、系譜によると慶長8年11月25日に亡くなっています。後述になりますが興昌の生母というところが大分危うくなります。



◆継室:かや(嘉也、慈光院、高橋紹運娘、立花宗茂養女)

正室のいとが亡くなったあと、継室として迎えられたようです。いつごろ嫁いだのかはまだ不明。立花家の家臣・立花親家(織部助とも)の室を記す史料もまだ見つけてないのでまだまだ分からないところばかりです。
立花家の家系図『御内実御系譜下調』では「於嘉也」と記録されているようです。漢字字体にはあんまり意味がないそうですが、字面がかわいいので採用します。
万治3年7月6日に亡くなったようです。戒名は慈光院殿玉英宗金大姉。
位牌は現在の立花家にも伝わっているようです。



◆長男:興昌

興元の長男。慶長9年(1604年)京都で生まれてます。生母は正室のいとと記録されていますが、いとは慶長8年に亡くなっているので死産もありえないのですよね。一応慶長8年生まれという説もありますがそれは過ちだと記しているのが多いです。(綿考など)
幼名は勝千代と寛政重修諸家譜などは記していますが、忠興の書状には「鶴千代」(原文は雨かんむりに鶴)、茂木藩家臣が興元の大坂の陣について記したものには「千代丸君」と出てきます。バリエーションありすぎかよ。
『細川右京家資料集 : 通称内膳』では、忠隆の長男・熊千代の死去した年が慶長9年(1604)としているが、墓がないことから興昌と同一人物では?という見解が記されていました。あとは1603年ごろの興元は堺の妙国寺にいるので妻帯は難しいのではないかということも。
忠利嗣子の光尚のほうが石高が上にもかかわらず、わざわざ興昌領地の茂木まで訪れ鷹狩していること(当時忠利にとって目上の者は忠興か忠隆と忠隆の子のみ)も踏まえて同一人物だと考えているようです。あながち否定できないのだけどせめて生母ははっきりさせたい。



◆長女:つる(高辻遂長室)

興元の長女。忠興・忠利の書状には「玄番(興昌)あね」「玄番妹」と書いてあってねーちゃんなのか妹なのかまだまだはっきりしません。勝手に姉だと思っています。生母は正室のいととなっていますがこちらも不明。
高辻遂長の継室だそうで、遂長との間に娘が生まれています。娘はのちに姉小路家に嫁いでおり、その縁で後々茂木細川家は姉小路家から養子をもらっています。



まだまだ分からないことばかりですが、以前より分かったこともかなり増えたかな?と思います。茂木町から出てる史料は大方目を通したつもりなので、谷田部(つくば市)の方の史料をいろいろ見つけていきたいです。







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