20150907 出奔もろもろについて


興元の出奔についてちょっと気になるところがあるので吐き出し。


慶長6年12月に領地が豊前に変わって、はじめて幽斎・麝香が中津城を訪れます。その時中津城に細川家一門が居る中、興元は所労(風邪という説も)を理由に欠席、興秋を名代に。忠興がそれをいぶかしんだところ小倉城から興元出奔の知らせを受けます。

・与五郎殿(興秋)ハ直ニ中津へ被留置、小倉城改の奉行として村上八郎左衛門・飯河豊前を早速被遣候、玄蕃殿ハ小倉御在城ニて松井と共ニ両家老職なりしに、流石に陪臣と成事をいきとほり、黒田甲斐守長政と密に謀し合せ、長政より小倉の大橋に迎舟を越され、大坂に遁れ被行候由
・丹後ニてハ与十郎(孝之・幽斎四男)・松井(康之)よりも少身なるを、相身代にして弐万五千石遣候ニ、無理なる不足と被仰候



この「与十郎・松井よりも少身なるを〜」について。
元足利家臣だった松井さんより扱いが下になるのは分かるけれど、20歳近く年離れている末弟の孝之(1585生)より扱いが下なのは、やっぱおかしい気がするのです。
ちゃんとメモってないけど、関ヶ原前、孝之は幽斎と居た→幽斎の統率下にある兵(田辺衆)は孝之に渡される→関ヶ原合戦で孝之が田辺衆を引き連れる→開城のあとも田辺衆は孝之の元にいる(おそらく豊前拝領以降も)

という事があったので、これが忠興、興元2人には孝之の家臣団=元からの孝之家臣+田辺衆に見えたのかなあと。興元の家臣団より多くなっているのかもしれないよな〜…
関ヶ原で家中で一番戦功あったのはたしか興元隊なのですよね。家一番の武功をあげてるのになりゆきで家臣が増えた弟より石高が少なくて、加増されても同等の数ならばムカッとする気持ちもわかるのです。

あとおそらく出奔する1ヶ月前に発行された検知の目録明後日までに出して!っていう忠興からの書状がきになります。先納の問題でも松井さんと共に黒田家と交渉しているのがうかがえるのと、それに合わせてどうやら門司あたりの普請や、松井親子のいざこざを取りまとめていたりしたようです。
本人的に希望より恩賞が少なかったのと、領国整備やそれに伴う色んなストレスが溜まってたんだろうなと。


それと綿考輯録には「輝経強て無子して(忠興を)養子あらは令弟興元公今八歳也、幸ニ御次男也、然を閣て御家嫡」という記述があります。この忠興養子説は信憑性微妙〜らしいのですが、書いてあることがほんとなら、忠興は輝経の養子として、代わりに興元が藤孝の嫡子として扱われていたことになります。実際幽斎の葬儀では、位牌は興元の肩に担がれた嫡男・興昌が持っている記録があるので、清州会議のアレを踏まえるとやっぱ忠興養子だったよ説はこゆいような…
が、幽斎、自身の歌集である『衆妙集』に「慶長4年1月1日、孝之に家督相続し侍るべき」として「あら玉のことしはよをもゆつりはのときはの色にならへとぞ思ふ」という歌を詠んでいるのです。ということは興元の家督相続はチャラに…?
松井文書にも孝之・幽斎・忠興で何か話し合いをしている文書があるので、なにかしら細川家でも家督相続でいざこざがあって、不満が溜まっていたのかもしれません。


黒田への出奔は仲が悪くなったから、そこの助力を得ることで兄へのあてつけ、という面が大きいと思いますが、先納問題の時は家老として黒田家とやりとりしていたので、ある程度交流していく中で勧誘され他という見方もできそう。家出というより転職くらいのノリだったかも。







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