20150111 興元の家族 縁戚関係とかのめも。ちょっとまだあやふやな所が多かったりします、、 間違ってたり情報あったらおしえてください(切実) ◆正室:いと(沼田清延娘) 名前の出典がどこからなのか不明ですが、『肥後細川藩・拾遺』『戦国の幽齋とガラシャ、そして廃嫡後の細川忠隆』に「いと」とあるのでそのまま。 いとの父・清延は麝香と兄弟なので、従兄弟にあたります。ちなみに松井さんの室も麝香さんの兄弟の娘さん。なかなかつながりが深い。 田辺籠城の時は城で死んでやる!!!ってなってたのを、家臣の説得で田辺へ籠城します。 興元が出奔したあとはすぐ京都の幽斎んところにいったのかな?1604年(興元が京都に来た翌年)には嫡男が生まれてます〜 ◆継室:慈光院/誓光院(高橋紹運娘、立花宗茂養女) 正室のいとが亡くなったあと、継室として迎えられたみたい(多分1610年以降)。その前は立花家の家臣・立花親家(織部助とも)の室だったそう。親家は出兵時に亡くなってるみたいです。いとに比べるといまいち史料が少ない。 いくつか家系図のHPみたところ「慈光院」と記載されてるのですが、『戦国細川一族』には「誓光院」とあります…どっちが正しいの…おなじく寛永14年に実家で亡くなった、と記載されてるので興元没後は立花に帰っちゃったのかなあ。 ◆長男:興昌 興元の長男。京都生まれ。おかんは正室のいと。幼名は勝千代なのですが、忠興の書状には「鶴千代」(原文は雨かんむりに鶴)とあります。あれれ…? 谷田部細川2代目なんですけども、興元が藩主として活動したのはとっても短い期間だったので、実質治世の基礎とかつくった初代藩主としての役割は興昌かなと。忠興の書状見る限りなかなか世間知らずな感じがしますがどういう人だったのかしら。 ◆長女:つる(高辻遂長室) 興元の長女。忠興・忠利の書状には「玄番(興昌)あね」「玄番妹」と書いてあってねーちゃんなのか妹なのかはっきりしません。姉って書いてあるのが一個多かったので勝手に姉ってことにしときます。おかんは正室のいと。 高辻遂長の室ってうぃきや寛政重修諸には書いてありますが、たぶん継室か側室のどっちか。 この子の生まれた年によって興元が出奔後どこに居たのか、あるいはいつまでいとが生きていたのかわかる手ががりになります。しかし史料がない。うううむ |