20150111 光尚と鷹狩り 寛永8年、忠利が六丸(光尚)を鷹狩に行かせたいと老中の大井大炊守に願い出て、興昌のところで鷹狩りしたとの記録。どうやら綿考輯録にもその記録があるようです〜〜 そのときの書状について大日本史料から抜粋。 ◆寛永8年2月29日 忠興→忠利 一.六ニ従両(光尚)上様御鷂被遣、玄番(興昌)知行所へ鷹仕ニ参候由、浅采女殿より申来候、又自内外記も御鷂拝領、其御使ニ外記被参之由被申越候ニ、其方より何共不承候除之儀ニ失念と存候、末御礼も不申上六ニ加様之御懇一入之儀と存、満足此事候事 みつなおのこと六って呼んでる忠興おじいちゃん可愛いね…???? この書状が発給されたのが、前描いた興昌vs忠興のあの長い書状からちょうど二週間後なのでちょっとまだぎくしゃくしてたのかもしれない。 補足として、興昌・光尚以後の肥後細川・谷田部細川は縁戚関係もってたり、交流もままあったみたいです。といっても大体谷田部細川がお金かしてー!ってせびってるあれだけど… |