20141212 大坂落城の時細川玄蕃頭鑓合言上の事 (常山紀談拾遺第一) 大坂落城のとき、細川玄蕃頭興元鑓を合する、と申上る。 後に家康公仰には、鑓合すると云こと、左やうに節々ある物にあらず。此茶臼山の北に見えたる勝鬘院の山に、佐久間不干、筒井順慶、荒木摂津守村重籠りて、大坂の門跡顕如上人より攻候とき、本の鑓合たると聞及びたり。其外上方にての鑓は聞及ぶにそのとき勝鬘院の鑓は、昔より言伝ふる杉なりの鑓と聞召たり、と仰られ候。 佐久間備前守罷り出、上意の通に御座候。同姓不干手にて、其日は両度鑓御座候。天正六年五月三日の合戦にて御座候。朝は茶臼山の西に見え候、難波の貝殻塚の合戦にて、不干が与力佐久間久右衛門、同葵之助、梶原弥三郎、水野源太郎、水岡小三郎六人鑓を合候。 その晩勝鬘院の山にて、不干が内志水亦市、江原弥介、浮見藤介、長瀬弥五右衛門四本鑓合申し候。長瀬は只今小右衛門と申、加賀にまかり有候、と申上る。家康公聞し召、扨々利常は能兵を抱持候、と御意なり。 長瀬小右衛門は黒母衣銀の牛の舌の出しにて、勝鬘にて鑓を合する。後門跡降参し、大坂城衆寄手小屋見物に出る。長瀬が小屋印に銀の牛の舌の黒母衣を見付、日外鑓を合たる母衣爰にありとて、小屋前に人多く寄て見たるとなり。 ◆当時の戦いは遠距離戦メインで、めったに槍を合わせての戦いがなかったみたい。なので「俺槍合わせて戦いましたよ!(ドヤ)」ってしてるんかなあ。 家康曰く、上方は滅多に鑓合わせがなかったようなので余程ラッキーだったのかも。 |