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帰還ED後寅之助

少し、油断していたのかもしれない。
自身の左手の中指を見つめながら、そう思っていた。


当たり前すぎて

あまり慣れないことはするものではないとは良く言ったもので、内心項垂れる。
未だ赤い液体が指先から流れ出るのを眺めながら、私は一つため息をつく。
そこまで痛みは感じなかったのが幸いだ。
少し先を切った程度で、大袈裟な傷ではない。
絆創膏でも貼っておけばいいだろう、と右手にしていた包丁をまな板に置く。

「…この程度、大丈夫だと思うけれど」

誰に言うでもなく呟き、くるりと身を翻す。

普段なかなかしない料理を、何故今日に限ってしようと思ったかはわからない。
ただの気紛れか、はたまたトラに言われたからか。
そこまで気にしているつもりはなかったのに、手は勝手に動いていて。
何を言われたかと言われれば、別に何も言われていない。
ただトラが何の気なしに、腹へった、と言っただけ。
私が作ることはあまりないから、料理に自信はない。
しかし、トラの少し期待したような綺麗な水色の瞳がこちらを見つめていて。
何よ、と言えば別に、と返された。
それがなんだか可笑しくて、笑ったらいつものあの不機嫌そうな顔で見つめられた。
立ち上がれば何処行くんだよ、と言いおまけに腕まで掴むくせに。
仕方がないから、作ってくる、と短く言ってトラから離れたのだ。

「撫子?どうした」
「…トラ」

絆創膏を取りに戻ってくれば、トラが不思議そうにこちらを見つめてきた。
私はなるべく悟られないように、忘れ物、と言ってトラに背を向け棚を漁る。
この角度ならトラから私の左手の血も、絆創膏を探していることもわからないだろう。
少し探ればすぐに目的のものは見つかった。
それを手にしようとしたのだが、その途端にぐっと腕を掴まれる。

「トラ?」

いつの間にか隣に立っていたトラに驚いて、目を丸くして。
けれどトラはあの鋭い、捕食者のような瞳で私を捉える。
もう慣れたもので、皆が怖がる瞳をスッと見つめ返す。

「…撫子、その手はなんだよ?」
「っ…」

私を掴む腕に力が入り、顔を歪めた。
棚に添えていた左手を掴まれ、トラの目の前まで引っ張られていく。
なんでわかったのよ、と目だけで訴えれば口許を歪ませたトラ。

「血の匂いがした」
「…正しくトラね」

左手の中指を見つめて、まだ少し流れ出る血をトラがおもむろに舐めとった。
驚いて腕を引こうとするも、痛いくらいに掴まれていてはどうしようもない。
ゾクゾクと変な感覚が全身を駆け巡り、目を強く瞑った。

「っ…な、にするのよ!」
「何って…オレのもん傷付けてんじゃねーよ」
「そこまで深くないもの」
「そういう問題じゃねぇよ」

最後にペロッと指先を一舐めして、髪の間から色の違う瞳が見つめてくる。
トラが言うから料理していて、それでたまたま少し切ってしまっただけだ。
証拠に、トラが舐めた中指は既に血が止まっている。
それに傷付いた数ならトラの方が確実に多い。

「…トラは人のこと言えないでしょう?」
「うるせー…今はこのこと言ってんだよ」
「もう治っているわ」
「ったく、勝手に傷付くんじゃねーよ…」

鋭い瞳で睨んでくるトラに、私は迎え撃つように睨み付ける。
綺麗な色の違う両目がより細められるが、すぐにふっと伏せられた。

「…ほんっと、面白れーなアンタ」
「私は何も面白くないわよ」

笑ったトラにそう言えば急に腕を引かれて、反応が遅れた私はトラの腕の中。
唖然としていたら、髪をとかしながらトラが私の肩に頭を埋める。
その感覚がくすぐったくて、離さないとでも言っているみたいで。
離れるはずないのに。離れられないのに。
くすりと微笑めば、口許を卑しく歪めたらしいトラが耳元で囁いた。

「お嬢はオレのもんだ」

そう言って耳朶に噛みついたトラに、料理がまだ作り途中だから、とは言うつもりはなかった。


2012/07/05


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