都海心中
ある朝。いつもよりずっと早くに目が覚めて、起き上がった僕は泣いた。声をあげて泣きたい気分でもなくて、静かに静かに泣いた。だって今日は、静かで穏やかな日。その朝のぼくはわかっていた。
なまえちゃんは、今日絶対に死ぬ。
ぼくだけがそれを知ってる。なんでかわからないけど、どうしてかそれがわかる。
なまえちゃん。やさしいぼくの友達のなまえちゃん。彼女は今日、死因はわかんないけど、どうしてか死んじゃうのだ。どう頑張ってもそれを助けることはできない。助けようとしたら、なまえちゃんは長く苦しむことになる。
しばらく泣いたあと、それを本人に言うべきか迷った。だけどなまえちゃんに最後の日を怯えて過ごしてもらいたくはないから、だからぼくはとうとう、それをぼくだけの秘密にすることにした。僕の心の中にある、僕だけの引き出しにそっと仕舞って。
『十四松くん…まだ4時なんだけど』
「なまえちゃん、今日はね、なまえちゃんの願い事なんでも叶える日!」
『え…?』
秘密のことだからひそひそ声で話すと、電話の向こうのなまえちゃんはよくわかってないらしい。眠そうな声で聞き返してきた。しょうがないけどじれったい。今日はもう71624秒しか残されてない。今71615秒を過ぎた。
「今日仕事休みでしょ?今なにがしたい?誰といたい?」
『寝たい…』
「寝てる場合じゃないよー!」
『えー…そうだな…じゃあ十四松くん、あそんでくれる?』
「…ぼくでいーのー?」
『うん』
「なまえちゃんが今一番会いたい人は?誰でも連れてくるよ、アイドルでも、大統領でも!」
『いや、何する気。ふつーにダメだし、十四松くんに会いたいんだけど…だめかな。』
耳をくすぐるようなやわらかい声が僕の名前を呼ぶ。わ、わー、僕がなまえちゃんの最後に会いたい人になっちゃっていーのかな。なまえちゃんは、僕が最後って知らないのか。やっぱり言ったほうがいいのかな。でも。
「……お、お、お願いしマッスル!!!」
『はーい、じゃああとでね』
「うん!!!」
「…十四松…?うるさいよ」
「あっチョロ松兄さん!ぼくなまえちゃんちに行ってくる!」
「今から!?迷惑だよ」
「なまえちゃんもう起きてるし!」
「いやお前が起こしたんだと思う…ああちょっと、パンだけでも食べてけば」
秘密は守り通す。本当だったらきっと、僕も知らなかったことだから。たぶんちょっとしたミスで、僕の耳にだけ入ってしまった神様とかいうやつの秘密だから。
誰も知らないはずのことをみんなに、なまえちゃんにいう必要はやっぱりない。それに言ったって回避できないんだからなまえちゃんを怖がらせるだけだ。
まだ眠そうなチョロ松兄さんからパンを受け取って急いで着替えて身支度を整えると、僕は一目散になまえちゃんの家まで駆け出した。
まだ外は薄暗く、霧が出ていた。
こんなに朝早くになまえちゃんに会うのは一緒にどこか遠くへ出かけるときくらいだから、錯覚をしてワクワクしてしまう。
走ればすぐになまえちゃんちについて、チャイムを鳴らした。やさしい明かりのついた部屋からなまえちゃんの返事が聞こえる。
開いたドアから顔をのぞかせたなまえちゃんは僕を見て一瞬目を見開いた。
「えーなんでスーツなの?」
驚いた顔をしたのは本当に一瞬で、それからすぐ笑いながら聞いてきた彼女に「特別だから!」というと意味わからないともっと笑われた。
笑ってから、何故かなまえちゃんははっとしたように口を抑える。しーっと人差し指を口に当てて、なまえちゃんは僕の手を引いて部屋に入った。
「朝ごはん食べてきた?」
「パンしか食べてない!腹へった!」
「あらら、じゃあ一緒にごはんにしよっか」
丁度作っていたところらしい。いい匂いがした。そわそわしてしまう僕を椅子に座らせて、なまえちゃんはキッチンへ。
なまえちゃんの背中を目で追いなから、今日はどこへ行こうかと考えておくことにした。
「……なまえちゃん!今日どこ行きたい?」
「えー…そうだなぁ…行きたいとこはいっぱいあるけど」
「まだ時間あるよ、全部行こう!」
「全部?あはは、全部は無理だよー。ちょっと待って、考えるね」
おいしそうなご飯をお盆にのせて、僕の前に置く。早く食べたくてお腹が鳴った。だけどなまえちゃんが座るまで我慢だ。
僕の正面に座ったなまえちゃんと二人で、手を合わせていただきますを言ってそれからようやく食べ始める。なまえちゃんは料理がうまい。
もりもりごはんを頬張る僕をまた、擽ったくなるようなやさしい目で眺めながら、頬杖をついてなまえちゃんは言った。
「昨日から誰かに会いたい気分だったんだ、ありがとう」
それは、いつもよりももっと穏やかな声だった。なまえちゃんも、はっきりじゃなくても何となく今日の日のことをわかっていたりするんだろうか。
そう考えると箸が自然と止まったけど、首を傾げるなまえちゃんに心配をかけたくなくてまたもりもり食べた。大丈夫。なまえちゃんのごはんは今日もいつもどおりめちゃくちゃおいしいし、いつも通りだよ。
「うんめーー!!」
「それはよかった」
*******
海に行きたい、ペンギンが見たい、買い物に行きたい。
指折り数えるなまえちゃんの手を引いて、2人でひとつひとつを回っていった。
海見に行って、水族館が開く時間まで遊んだ。拾った綺麗な貝殻をなまえちゃんのと交換して、波の音を一緒に聴いた。
その後水族館に行って、アシカとかペンギンとか、いろいろ見て。なまえちゃんが楽しんでるか確認したくて、ついなまえの顔を何度も見ちゃって、なまえちゃんに怒られた。
でも、それでもその後笑ってくれた。「十四松くんは魚より私見てた方が面白いの?」って。面白いというか、それはちょっと違うけど。
それからファミレスで昼ごはんを食べて、そのあと原宿で買い物して。
なまえちゃんとのお出かけはいつも通りとびきり楽しかった。
公園のベンチに座って、ぼんやりしてるだけだって、どうしてかすごく、楽しかった。
「なまえちゃん、楽しい!?」
「うん、たのしい。十四松くんは?」
「すっっっげーーーたのしい!!」
「ほんと?それなら私、二人分楽しい!」
当然のようにそう言う、なまえちゃんのそういうところが僕は好きだった。
午後4時のまだ明るい空を眺めながら、にこにこしているなまえちゃんを見るのが好きだった。
ふと思った。あれ、なまえちゃんって、今日の何時に死んじゃうんだろうって。
僕がぼうっとしてたら、なまえちゃんは心配そうにどうしたの?って聞いてきた。
「何か飲み物買ってこようか?」
「あ、うん!僕も一緒に行きたい!」
「ええ?すぐそこの自販機だよ」
「僕も一緒に選ぶ!」
「そう?」
なまえちゃんは首をかしげた後笑った。
「十四松くんて、ほんと可愛いなぁ」
「え!?」
「あはは。で、どれにするの?飲み物」
「あっうーーん……」
僕はサイダーかオレンジジュースか悩んだ末にオレンジジュースのボタンを押す。
ガタンと音を立てて出てきたペットボトルを取り出しているうちに、なまえちゃんは迷いなくボタンを押していた。
出てきたものを代わりに取り出そうと覗いて、あ、と思う。サイダーだった。きゅ、と思わず口を結んだ僕を見て、なまえちゃんは笑った。
「私の一口あげるから、十四松くんのも一口ちょうだい」
ほんとに、僕はその時つい、泣きそうになったんだ。なまえちゃんて、なまえちゃんて人は何で出来てるんだろう。他の人とは何か違うに違いない。たぶんひまわり畑とかで生まれたんだ。
ベンチに座ってシュワシュワするサイダーを飲みながら、僕はつぶやいた。
「世界は優しくないけど、なまえちゃんはやさしいね」
そう言うと、なまえちゃんは「そんなことないよ」って明るく笑った。
きれいだとおもった。
それからまた、どうでもいい話をして、笑って、公園の景色を一緒に眺めて、
そうして空が赤になった頃、そろそろ帰ろうかとなまえちゃんが言った。
カラスの声が聞こえる。ベンチから立ち上がった彼女は、僕にお礼を言った。
今日は本当に楽しかった、ありがとうって言ってくれた。その言葉が全てだった。その言葉のおかげで僕は今日のことを心から誇れる。なまえちゃんのことを哀しい思い出にしなくて済む。
笑顔のなまえちゃんを心にずっと生かしておきたかった。それが唯一僕に出来ることだと思っていた。なまえちゃんが楽しんでくれてよかったよ、僕もほんとのほんとに、すっげー楽しかった!一生懸命身振り手振りでなまえちゃんにそれを伝えれば、彼女はもっともっと笑ってくれた。それから名残惜しそうに目を細めた。
「じゃあね、十四松くん」
そうやって手を振れば、なまえちゃんは振り返らない。いつもそうしている。
振り返って僕の顔を見てしまうと帰れなくなっちゃうんだって。まだ話していたくなっちゃうんだって、なまえちゃんは困ったように言っていた。僕はそれが嬉しかったけど。
だけどいつも、振り返っちゃいけないよって言っておいた。僕も、引き止めたくなるから。
見送らなきゃいけなかった。
大きくて真っ赤な夕陽に呑み込まれるなまえちゃんの小さな背中が見えなくなるまで、僕は大きく手を振って、なまえちゃんのことを見送らなきゃいけなかったんだ。
そうじゃなきゃ、なまえちゃんを困らせてしまうから。これ以上一緒にいたら、僕はなまえちゃんを見送れなくなる。ずっと一緒にいたくなってしまう。
心の中がいっぱいいっぱいになって、とんでもない事をしてしまいそうになるから。
そうやってわかっていたのに。結局僕は、なごりおしくてなまえちゃんの手を引いてしまった。
驚いて振り返ったなまえちゃんは、僕を見てやっぱり困った顔をした。
「十四松くん、どうしたの」
やさしく、子供に声をかけるようになまえちゃんは聞く。なんでだろうと思った時、ぽたりと頬からなにかが落っこちた。
気がつけば僕はぼろぼろ涙をこぼしていた。次から次へと落ちていくそれを見て、なまえちゃんは眉を下げる。
これ以上困らせたくないのにやっぱりだめで、いっぱいになった心からいろんなものが涙と一緒に出てきてしまって、口からぼろぼろこぼれた。
「なまえちゃんだいすき」
「…わたしもだよ、十四松くん」
「なまえちゃん、ぼくね、ぼくは、なまえちゃん、」
「もう、どうしたの」
何も知らないなまえちゃんは、おかしそうに笑って僕を見る。そうやって全部笑い飛ばして、あんなざんこくな予知は元からなかったみたいに明日もまた会えたら良かったのに。
お願いだよ、なまえちゃん。
どうかどうか死なないで。明日も明後日も生きてよ。今日みたいに僕と一緒にいてよ。
なまえちゃんを、なまえちゃんの明日をとらないで。お願いだから。
ねぇ、こんな事言うのはひどいかもしれないけどね、長く苦しむことになったとしても、ぼくはなまえちゃんに長く生きてほしいよ。
僕の隣にいてよ、僕も一緒に苦しむから。なにがなんでも生きよう。生きていこう。
だってね、死んだらおしまいなんだよ。
「なまえちゃん、なまえちゃん、しんだらだめだ」
「十四松くん…?」
「しんだらね、だめだよ、そこでおわり」
「そうだねぇ…」
ぐずぐずとかっこ悪く泣き続ける僕を抱きしめて、背中をぽんぽんと穏やかなリズムで叩く。あったかくて、このまま眠ってしまいたいと思った。
なまえちゃんはやさしい。死んでしまうその日まで、最後までずっとやさしい。何回だって思った。いつだってそう思った。だってなまえちゃんは何回もやさしくしてくれて、いつだってやさしくしてくれたから、当たり前。
世界は全然やさしくないけれど、なまえちゃんだけはずっとずっとそう。なまえちゃんは、なまえちゃんを生み出した世界よりももっとずっとやさしいんだ。
顔をあげてなまえちゃんにさっきと同じようにそう言えば、なまえちゃんはどうしてか、そこで初めて顔を歪めた。痛いのを我慢するみたいな顔だったから、ぼくは心配になる。
だけどなまえちゃんはそれから静かに首を横に振って、眉を下げて不器用に笑った。くしゃくしゃで、苦しそうにしながら、僕に言った。
「…十四松くんは、私よりずっと優しいよ」
泣きそうな、微かに震える声でそう告げたなまえちゃんに、僕はとうとう声をあげて泣いた。なまえちゃんはもう一度僕を抱きしめて、たぶん泣きながらありがとうって言った。
本当に、世界がもう少しやさしかったら、なまえちゃんは明日を生きることができたのに。どうして。
たしかにあった春の日の話
160406
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