踏み入れる
次の日の昼下がり、一松はドアの前に立ったまま3分ほどじっとしていた。
ドアにはB5の用紙が適当に貼ってあり、『天文部』と、丸くも角張ってもいない落ち着いた文字でかかれている。その前で一松は動けなかった。
夜代の居住地、天文学部の部室である資料室は、棟の端の端に追いやられるようにあった。
どこだかわからなかったから随分うろうろしたということは誰にも言えないことだ。───つい気になって、なんて兄弟が聞いたら笑うだろう。あんなに突っぱねていたくせに。
そう考えると自分でも笑えてくる。馬鹿とかかわったせいで馬鹿がうつったかもしれない。
いつまでもノックできないドア、回せないドアノブを見つめながら、らしくなさすぎて呆れた。そうして帰ろうとした。
「…あ、」
その時誰かの口からこぼれたらしい小さな声が、右方から一松の足元に転がってきた。元を辿るように顔を上げると落とし主と目が合う。一松をみて随分驚いているようだ。星がぱちぱちと瞬いた。
「一松くん?」
緊張したような声色で慎重に名前を呼んで、一松と一松が手をかけているドアノブを交互に見る。
そして状況を理解すると、夜代はぱぁぁっと顔を明るくさせた。その表情にだらだらと冷や汗を垂らし固まっていた一松は慌てて手を離して今度こそ帰ろうとする。
しかし夜代はそうはさせるものかと、素早く間合いをつめて一松の肩をがっちり捕まえた。
「まぁまぁ、せっかく来てくれたんだからお茶でも飲んでいかない?お菓子もあるし」
「…………」
「ちょちょちょっ待て待てほんとに帰ろうとしないで!?」
「いい良いほんとおれそういうの良いからないない」
「なにが!?」
「いいっつってんだろはなせ…!!」
「いやここまできてそれはない!」
「っ別におれそんなつもりできたわけじゃないし…!!」
「じゃあどういうつもり!」
夜代は手を振り解こうと躍起になる一松の背中にしがみついた。ぎょっとしたのか緩んだ力に、夜代はにやりと笑って手を伸ばし、ドアノブに手を掛ける。そしてそのまま一松ごとぐいっと前に体を押した。
「いいからっ遠慮なさらずおきゃくさまっ!?」
「うわ、!?」
ほぼ体当たりするかたちでドアが押し開いて、一松は必然的に飛び込むように資料室に足を踏み入れ、夜代と縺れて転んだ。
ぎ、と睨みつけると、僅かに痛そうに顔を歪めながらもにっこり笑い返される。ほとんど密着しているようなものだから当然顔が、距離が近くて、一松は一瞬がちりと固まったが、夜代は気にせず「ようこそ」なんて言った。
ようやく手が離れ、一松は邪念を振り払うように勢いよく立ち上がり部屋を見渡した。暗い色のカーテンに覆われた窓のそばにおいてある大きな望遠鏡、隅には積み上げられたたくさんの本、中心には長机とパイプ椅子。あとは変に小綺麗な棚と、掃除ロッカーくらいだろうか。
決して殺風景というわけではなく、むしろ乱雑にものがごった返しているのに、どうしてかどこかさみしい部屋だった。まだ残暑の厳しい季節だというのに、心なしかひんやりとしていて冷たい部屋だ。
「まぁ適当に座って!椅子はいっぱいある」
「………誰か他に来たら、そういうの無理なんだけど。知らない奴とかめんどくさい」
「ああ、そういうこと?大丈夫だよ、誰も来ないから」
「え」
「夕方になったらたまに顧問は来るか。月一くらいだけど…ああ、今日のお昼に生徒会が来るっけ。で もまだ10時だしもう少し先でしょ?来ないよ」
「……いや、部員は?」
「あーこないこない、私だけだよ」
はいお茶。
どこにストックしてあるのか、かなり冷えたお茶を出された。どこからかお茶菓子も出てくる。
不思議に思ってじっと見つめると、「下の階の家庭科室の冷蔵庫借りてるの、いま自分で飲むつもりで持ってきた」とあっさり答えが返ってきた。
ひとりで随分好きにやらせてもらっている、と夜代は言う。それを聞きながら、一松は先ほどの会話が引っかかった。来ない、とどうして言いきれるのだろう。まさか本当に部員は一人だけなのだろうか。一松がそれを訊こうとする前に、夜代は少しうつむきながら口を開いた。
「もう会ってくれないと思ってた」
「……会わないなんて言ってないんだけど」
「!そっか、よかった。……あのさ、夏休み、あの日行けなくてごめんね」
「………は?」
「あの日ね、先生が熱中症で倒れちゃって、私のせいなとこもあるから申し訳ないからお見舞いに行って、だから路地に行けなかったの」
その日から部活なくなって、一応路地には行ったんだけどそれから一松くんいなかったし。
唐突にそんなことを言われて、一体なんのことを言っているんだと一松はやや混乱する。
「なにそれ、いつの話?」
「えっと、あー……私が変な事言っちゃって、一松くんが途中で帰った日の、次の日?」
「………その日、来なかったの?」
「え?」
ぽかんとする夜代を見ながら、一松は考える。要するにだ。急に帰った次の日から一松は一日も路地に顔を出さなかったが、夜代も同じ日、タイミング悪くも顔を出さなかったらしい。
タイミングのせいで、夜代は自分が来なかったことに原因があると思ったようだ。
「…あんたが来なかったからじゃないんですけど」
「え、そうなの?」
「おれが行かなくなったの、あんたが来なかったからじゃない。俺もその日行かなかったから」
「え、そう、え?」
「それで、その日からもうおれは家を出てないし」
「え、あ、そうだったの!?」
「……」
「ええーなんだー!一松くんが暑い中一人で待ったのは私の妄想か!よかったよかった!」
約束なんてしてないから怒られたって困るが、暑い中一人で待った自分のことは考えないのだろうか。
本当にふにゃふにゃした奴だと、一松はため息を吐いた。───夜代のいうひどいこととは、暑い中に一松をひとり置き去りにしたことだったらしい。結局夜代はとんちんかんで、やはり何もわかっていない。どこかで期待した自分は裏切られたわけだ。でも、別によかったかも。逆によかったかもしれないと一松は思った。
自分の仄暗い部分なんて、わかってなくてもいい。一松だって、ほとんど夜代のことがわからないのだから。
「…というか、人が少ないって言うか…一人なの」
「そうだよ」
「……部員一人って、部として認められてるの」
「いや、籍を置いてる人は何人かいるんだ。来たことないけど」
「はっさみしいやつだね」
「そうなの」
夜代は困ったように笑った。
机の上に丁寧に置かれた暗幕を撫でながら、文化祭はちょっとさみしいかな、という。
「まぁとりあえずうちは椅子並べてプラネタリウムかな。クラスの方手伝うより気も楽だし」
「……ふーん」
「一松くんも興味あったら見に来てね、パンフレットに時間載せとくよ」
それからしばらく夜代は一松に色んなことを話した。ここに椅子を並べるだとか、去年の文化祭のこと、それと夏休みの活動のこと。
たった一人の部員のために夏休み毎日学校に来させられていた年配の先生が熱中症で倒れたから自粛したことなどを笑って話す夜代に、一松もたまに兄弟のことや猫のことを話した。
友達みたいだ、と思って、そのやさしい締め付けにまた胸が苦しくなった。
151218
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