そんな世界のこと
アイスを奢らせたあの日から、槻谷夜代は毎朝猫のいる路地に寄り道していくようになった。
自転車では音が立つからってわざわざ徒歩で、彼女は柔らかい足音を立ててやってくる。
僕がそれを見上げれば「今日も朝から暑いね」なんて言って、これまたやわらかく笑った。
確かに暑い。あまりにも暑いので実は僕は何度もくるのをやめようともおもっていた。こいつだって早く学校に行った方がまだ涼しいだろうに。
しかしこいつは今日もここにやってきた。
大体来いとはっきり言われてないのにこうして来れるというのは、一体どれだけの自信があるんだろうと考える。僕には到底できないことだ。
はっきり求められたって、僕にはできない。期待して裏切られるのは恐ろしい。
それに、こいつは楽しいのだろうか?昨日の晩御飯の話とかこの前あった花火大会のこととか、おいしいコンビニのデザートの話とか、
そんなくだらない話をしたり、逆にお互い何も話さないで猫を眺めたり。本当に楽しいのだろうか。惰性で来てやしないだろうか。だとしたらもういいのに。来いとは言ってない。
「一松くん、何か考え事?」
「……………ねぇ」
「ん?」
「なんで毎朝くんの」
「えっごめん」
「……なんで謝るわけ、めんどくさいな」
舌打ちをすると、一松くんそれ癖になってるでしょ。とやつは困ったように笑った。うざい。ほっとけ。
「なんで毎朝来るかってね…来たいからなんだけどね」
「………」
「一松くんはどうして毎朝ここに来るの?」
「………おれは猫すきだから」
「そうかー」
僕の返事にどうしてか嬉しそうににこにこするものだから、なんでお前が喜んでるんだよ。と思った。相変わらず馬鹿丸出しだ。
彼女は嬉しそうなまま猫を撫でる。愛されてるね、良かったね、うれしいね。なんて言いながら。
「一松くんは猫飼ってないの?」
「飼ってない」
「そっかー、じゃあこの子のこともさわりたい放題だねぇ、私のとこの猫は他の猫の匂い嫌がるからなぁ」
名残惜しそうに手を離して、じっと猫を見つめる。
それからまた勝手に一人で笑って、やさしい声で彼女はつぶやくように言った。
「この猫は、一松くんのおかげで人生が彩られてるね」
「──────」
その言葉がスイッチだった。
「あれ、猫だから人生じゃないね。猫生??」なんて彼女は笑ったが、対する僕は笑えない。
さっきとは打って変わった気持ちだった。むなしい、と思った。きゅうに胸が空いて、思い出したさみしさが溢れ出した。
まさにぷつんと明かりを消されたみたいだ。
「…餌くれる人間なら誰でもいいんだろうけどね」
「え」
僕は立ち上がって、彼女の呼び止める声も無視してフラフラと路地を出た。別に怒ったわけじゃない。
ただ、本当に急にこういう気持ちになるだけだ。いつものことだった。情緒不安定かよ、と思われただろうか。間違ってない。僕もそう思った。
なんだかもううんざりだ。こんな暑くて明るい中にいるのは。夏なんてしねばいい。
本当に、別に大したことではなかったけれど。僕の心はすっかり折れていた。自分で最後に言った言葉が完全にとどめで、僕はやる気を失った。
折れた心では、今まで耐えていた暑さにも耐えられない。我慢することができなくなった僕はとうとう暑さに負けて、僕はつぎの日から出ていくのをやめた。
彼女はああ言ったが、僕はあの猫が僕以外からも餌をもらってるって知っている。ひょっとしたらもう何処かでほぼ飼われている猫かもしれない。猫とはそういうものだ。僕がいなくても猫生は鮮やかに彩られている、僕なんかいてもいなくても変わらない。心底そう思う。
それは、彼女にとっても。彼女は僕がいなくても明日も明後日もあの道を通って、学校に行くのだろう。人が少ないといっていたけど、たとえ少なくても友達とか仲間とかそういうのがいて、僕が必要なわけが無い。そういう世界だ。
151206
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