馬鹿


   秋の大会に向けての練習がハードになり、もうヘトヘトだったはずなのに、残りの体力を全部注ぎ込んで地面を蹴っていた。ロードワーク中にすれ違った救急車が脳裏に浮かぶ。
   部活中に溺れた郁ちゃんがそれに乗ったと担任の先生に聞かされたのは、部活が終わったついさっき。病院の名前を聞いた途端に私は学校を飛び出した。到着した病院ですれ違う人たちが何人も振り返る。全部全部気にならなかった。病室ってどこなんだろう。

「おーいミョウジー!」

   息を切らしながら案内図を見上げていると、よく聞く声に名前を呼ばれた。素早く顔を向けると郁ちゃんといつも肩を並べている三人組。私はバタバタと駆け寄り、声をかけてくれた椎名くんの腕を力強く掴んだ。

「っし、椎名くっ…い、いく、郁ちゃ、郁ちゃんは!郁ちゃんは!」
「お、おお、おちおちおお落ち着け!」
「旭も落ち着け。ミョウジ、郁弥ならもう大丈夫だ」
「さっき目が覚めたんだよ。病室なら二階の手前から二番目、」
「ありがとう!!」

   橘くんの言葉を最後まで聞かずに再び走り出す。エレベーターにこんなイライラしたことは今までかつて無かっただろう。開いた先に出た先に誰もいないことを確認して、また走ろうかと思ったけど、病室棟が静まりかえっていたことで少し冷静になった。
   走るのはやめて、気持ち早足で迷わず言われた場所へ向かう。名札に書いてある名前とドアが開いている病室のベッドに座っている人物が頭の中で一致する。まだ荒かった呼吸を整えていると、ぱちりと目が合った。

「え?ナマエ?」
「……郁ちゃ、」

   名前を呼ばれたらほっとして、私も名前を呼ぼうとした途端、ぼたぼたと床が濡れる。それが何か確認する余裕なんてない。気づけばスクールバッグを床に放り投げて、郁ちゃんに抱きついていた。

「うわっ!ちょ、ナマエっ、」
「生きてる!いきてる、うええ、し、しんじゃうかと、おも、おも、った、っ」
「はあ?!このくらいで死んだりしない、って、いうか、は、離れっ」
「よかった、よかった!よかったよう…」
「……」
「ぐ、っ、ばか、ばかやろう!どあほ!!」
「……ごめん。心配かけて」
「っひ、うえ、い、っ、一生許さない!許さないからっ…!」
「うん、ごめん。ごめん…ごめんっ…」

   謝る声がだんだん弱々しく切ないものに変わり、背中に回っていた手に力が強くなったのが伝わってくる。私も腕の力をこめて、感情任せにぎゅうぎゅうと抱きしめる。
   いつも一生懸命で頑張り屋さんの郁ちゃん。地区大会は陸上部の大会が被って見に行けなかったけど、最後は残念な結果に終わってしまったとあとから聞いた。悔しい思いをしたと、これからもっともっと頑張りたいと、来年は勝ちたいと郁ちゃんは言っていた。
   頑張ってほしいと思った。それと同時に私ももっと頑張りたいと思った。一緒に頑張りたいと思った。今でも思ってるけど、こんなふうに頑張ってもらっても嬉しくも何にもないんだよ。みんなもそうだよ。ねえ、郁ちゃん。

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「お騒がせしました…」

   ずび、と鼻を鳴らして深々と頭を下げると郁ちゃんのお兄さんはははっと明るく笑った。私が来たときちょうど飲み物を買いに行っていたらしいのだが、病室が騒がしいのに驚いて慌てて様子で戻ってきてくれたらしい。今は郁ちゃんのベッドの端に腰掛けさせて、鼻をかませてもらったところ。ゴミ箱がティッシュでいっぱいになったのは本当に申し訳ないと思っている。

「まあ、びっくりはしたけどよ。まさか郁弥にこんな可愛い彼女がいるなんてな」
「え、かのじょ?」
「なっ、兄貴!違うから!」
「なんだ、違うのか?確か大会の応援にも来てくれてたよな」
「ナマエは友達……すごく、大事な」

   控えめに付け加えられた言葉に飛び上がるほど嬉しくなった。本当はまた郁ちゃんに飛びつきたいところだけど、また騒がしくてしまうかもしれないのでここはぐっと堪える。

「ナマエって泣いたりするんだね」
「そりゃするよ。幼稚園のときに虫取ろうとして木から落ちたときだって泣いちゃったし、前の小学校から岩鳶に引っ越してくるときも泣いちゃったもん」
「笑ってるとこばっか見てるから、なんか意外だった」
「それは、郁ちゃんといたら楽しいことばっかりだからじゃない?」
「……なにそれ」
「そのまんまの意味です〜。それを言うなら私だって、郁ちゃんが泣くところ初めて見ちゃったもんね」
「そ、それは……ナマエがいつも笑わせてくるから」
「ふふ、郁ちゃんはやっぱり可愛いね」
「全然嬉しくないんだけど」

   呆れた顔で笑う郁ちゃんは、数時間前に救急車で運ばれた患者さんとはとても思えないくらいに元気が戻ったようだ。何かあったら心配で眠れなくなるところだった。ほっと胸を撫で下ろしているとお兄さんが声をかけてきた。

「えっと、ナマエちゃん?で合ってるか?もう遅いし、そろそろ帰った方がいいぞ」
「わ、ほんとだ。……あっ、お母さんに連絡もしてない!」

   窓の外を見るとすっかり辺りは暗くなり始めていた。うちのお母さんは厳しい門限とかは付けない派だけど、さすがに連絡もなしでこんな時間までいたら心配するだろう。私がベッドから立ち上がると同タイミングでお兄さんも椅子から腰を上げる。

「そろそろ母さんが来るだろうから、ここまで案内してくる。ナマエちゃん、下まで一緒に行くか」
「はい!それじゃあ郁ちゃん、明日プリントとか持ってくるね」
「……ん、ありがとう。待ってる」
「うん!また明日ね!」

   明日からしばらく郁ちゃんが入院でいないのはすごく寂しいけど、身体の方が大事だから今はちゃんと休んでもらわないと。寂しさを出来るだけ隠して病室をあとにした。
   郁ちゃんのお兄さんと並んでエレベーターに乗る。確かお兄さんは水泳部の部長さんなんだっけ。尊敬してる人は誰か、という話を振ったときに、私はお母さんだと答えたけど、郁ちゃんはお兄さんだと言っていた。確かにかっこいいもんな。貫禄というか、たくましく頼れる感じが伝わってくる。

「プリントなら俺に預けてくれればいいんだぞ?ナマエちゃんも部活あるし、大変だろ」
「いえ全然!郁ちゃんに会えないほうが、ずっと寂しいので」

   手を振って全力で否定する。何故だかお兄さんは目を丸くさせて驚いていた。なにか変なことを言ったかな。頭に疑問符を浮かべているとお兄さんがふっと目を細めて笑う。

「あいつ結構消極的なとこがあるから、水泳部のやつ以外に泣いてくれる友達がいて、ちょっと安心した」

   ……郁ちゃんよ、お兄さんになんだと思われてるんだ。けど頬を掻きながら目を逸らす横顔が、照れて怒る郁ちゃんにそっくりだった。

「お兄さん、郁ちゃんのこと大好きなんですね」
「まあな。自慢の弟だからな」
「私の自慢の心の友でもありますしね〜」

   そんな話をしていたらあっという間に病院のロビーに到着。お兄さんとはここでお別れだ。そういえばお兄さんの名前を知らない。郁ちゃんは『兄貴』って呼ぶし。ええと、聞いたら失礼になるのかな。

「そういえばまだ名前言ってなかったな。俺は桐嶋夏也、って名字は分かるか。よろしくなナマエ」
「は、はい!よろしくお願いします桐嶋先輩!」
「おいおい夏也でいいって」
「あ、ええと、な、夏也先輩…!」
「おう!」

   以心伝心でもしたのかってくらい、知りたいことを教えてくれた。郁ちゃんが尊敬してる人で夏也先輩を思い浮かべるのもよく分かる気がする。力強い、たくましい、頼りになる。そんな言葉がぴったりな夏也先輩に挨拶をして病院を出る。外に出たときの涼しい風が、夏の終わりを告げていた。


  

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