「みょうじさんのこと名前で呼びたい」

ジュズズズ、という音と共に紙パックのへこむ音が沈黙に響いた。音の発信源は影山であり、昼休みの和気藹々とした雰囲気の中に沈黙を生み出したの一言を発したのは日向である。

「呼べばいいだろ」
「呼べないから困ってんだろ!!」
「困るぐらいなら呼べよ」
「出来たら苦労してないんだよ!」
「苦労するくらいなら呼べよ」

正論のようでどこかズレた返事をする影山に、山口は内心冷や冷やしながら二人のやり取りを見守っていた。もちろん見る専に徹することなんて無理な話であり、影山からまともな答えが返ってこないと早々に諦めたらしい日向から目をつけられる。その眼差しはぎらぎらと期待を大いに含んでいた。

「山口はどうしたらいいと思う!」
「あーー、ええ、と」

そうだなぁ、と考えはするものの正直影山と同じような答えしか浮かんでこない。呼びたいのなら呼ぶしかない。それに伴って勇気を出すしかないのでは。しかし日向は小心者の代表ともいえるメンタルの持ち主であり、それは彼女であるみょうじさんの前でも例外ではなく、現在もフルスロットルで発揮している状態である。知っているからこそ具体的で明確なアドバイスの方が良いはずだ、とは思うものの、そんなことが出来る程恋愛経験も備わっていなかった。

「さりげなく呼んでみればいいんじゃないかな。朝挨拶するときとか、帰り際とか」
「さりげなく…挨拶……な、なるほどな」
「そうそう。意識して呼ぶと余計に緊張するしさ」
「わ、分かった!なるべく意識しないように、さりげなく、さりげなく…」
「なんにせよお前次第だろ」
「ううううっせーな!分かってるよそんなこと!」
「……騒がしいんだけど」
「あ、ツッキーおかえり」

担任教師に呼ばれていた月島が戻ってきたようだ。普通ならスルーをしていきそうなものだが、生憎と三人が喋っていたのは月島と山口のクラスの目の前である。同時に話題の中心みょうじさんも同じクラスなんだけど。あえてそのことは言わず、月島は視界の端に捉えた人物と静かに目を合わせる。

「日向がみょうじさんのこと名前で呼びたいんだって」
「ふぅん。呼べば、普通に」
「影山と同じこと言うな!」
「うわ、こいつと同じとかやめてよ」
「こっちのセリフだ!」

影山が月島の発言に怒号を散らす。 ただでさえ昼休みの廊下は賑やかだというのに、このメンツが揃うとさらにヒートアップしているような気がする。そこで山口も視界の端にひょっこり現れている影を見つけて、小さくあっと声を漏らす。

「みょうじさんの名前知ってんのかよ」
「当たり前だろ!俺の、かっ彼女だし!」
「影山は知らないの?」
「知らねぇな」
「勉強教えてもらってたくせに失礼なやつだな!」
「頭の容量使い果たしてたんじゃない?」
「あァ?」

自分を見下ろすようなことしか言わない月島をぎらりと睨みつけるも、慣れたように鼻で笑われるだけ。そして影山もようやく目が合った。眉間の皺を急に伸ばした影山には気づくことなく、日向は胸を張って高らかに口を開いた。

「いいか聞けよ影山!みょうじさんにはなぁ、なまえっていう可愛い名前があるんだぞ!!」


「合ってんのか」
「あ、えと、合ってマス」
「……え?」

後ろから、声。それは今まで自分が話題に上げてきた人で、たったさっき可愛い名前だと告げたばかりの。

「えっ、えええっ、みょうじさん!?」
「そうです。みょうじさんです」
「い!い、つから!いつからいたの!いつからいたの!?」

彼女の思いがけない登場に日向は動揺を隠しきれない。そんな日向とは対照的に、余裕たっぷりな様子のみょうじさんはクスクスと小さく笑っていた。

「えっとね、山口くんの"日向がみょうじさんのこと名前で呼びたいんだって"あたりからかな」

さっきじゃん!!と日向は声に出来ず、口をぱくぱくと開閉させる。まさか、とバッと三人に目をやった途端に「戻るよ山口」「あ、待ってツッキー!」月島と山口はすぐそこの自分たちのクラスへそそくさと消えていき、影山なんて既にそ少し離れた場所におり、おまけに呑気に欠伸までしている。(あ、あいつら…!!)切り替えの早い三人の態度に、自分だけがみょうじさんの存在を認識できていなかったことにようやく気付いた日向。 睨んだとこでもう時は既に遅い。

「……あの、日向くん」
「はっハイ!」
「まず、廊下で恥ずかしいことを大きな声で言うのはやめようね」
「………ゴメンナサイ」

まるで小学生の子供に注意するように優しく注意されて、別の意味で恥ずかしさがこみ上げた。逃げたい、逃げたくない、もっと一緒にいたい。みょうじさんちょっと怒ってる、かもしれない。謝罪以外の言葉が出てこなくて黙っていると。

「それからね」

……ん?それから?

「もう一回名前で呼んでほしいな」
「………へっ?」

急なみょうじさんからのお願いごとに日向は目を真ん丸にさせる。みょうじさんはと言うといつもどおり余裕を含んだ微笑みを浮かべてかくんと首を傾げた。

「……だめ?」
「だぁっ、えっ!?だめじゃない!じゃないけど!」
「じゃあほら、呼んでよ。お昼休み終わっちゃうでしょ?」
「そ、そんなこと急に、言われても」
「呼んでくれるまで教室帰してあげないよ〜?」

身体をガチガチに強張らせて戸惑っている日向に、まるで面白がるように問いかけ続ける。日向の口からは「あ」「う」と母音が漏れるばかりで一向にみょうじさんの名前を呼ぶ気配はなかったが、周囲の人たちが教室に入りはじめたのを見て、意を決して口を開く。

「…… みょうじ、さん」
「ふふ、名前じゃないよ」
「っ…… なまえ、さん…」
「呼び捨てで大丈夫だよ」
「え!?いやそれは!ハードルが高いというか、俺の心臓が持たないというか!」
「彼女なのに?」
「かのっ、」

翻弄され続ける日向はもうキャパオーバー寸前になっていた。心臓痛い。顔熱い。もうどうにでもなれと半分ヤケになりながら、先ほど影山に対して発していた声量とは比べものにならないくらい小さな小さな声で。

「………なまえ」

囁くように言った。顔を真っ赤にさせてそれはもう恥ずかしそうに、腕で口元を覆いながら。それを聞いたみょうじさんは満足げにゆるりと微笑んだ。

「はい。翔陽くん」

優しく返事をするみょうじさんの頬がいつもより色濃く見えて、心臓がさらにけたたましく暴れ出す。ぐるぐるになっていた思考回路がぱちんと弾け飛んだのが分かった。
その後、どうやってみょうじさんと別れて、自分の教室へたどり着いたのかは自分でも分からなかった。ただハッキリと分かるのは、教室へ戻ってきた日向の顔が尋常じゃないくらいに真っ赤になっていて、クラスメイトが心配の声をかけたことだけ。


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