himawari episode.01


「はああぁぁーーー……」
「………何してんだ?」
「! こ、これは、あっ、そうだ精神統一!落ち着いて試合を見るために!」
「郁弥の写真でか?」
「そう!昨日の夜に凛が送ってくれたやつ!」

   長椅子に三人並んで座っているところ、真琴くんを挟んで向こう側に座る宗介にスマホを見せる。開会式が行われていた昨晩、三人それぞれにエールのメッセージを送ろうとしていたら突然送られてきた写真。一言『夏也さんに送るって撮ったやつ。おこぼれやるよ』とだけ添えられていた。余裕があって何より。そして学園祭で私と撮ったときより遥かにいい笑顔で、しかも見切れている遙の口元が緩んでいるのもちゃっかり写っている。

「はあぁ、かわいすぎる………眼福だあ………」
「茅って結構アホなのか」
「知らなかった?」
「失礼ですよ君たち」

   タブレットの準備している真琴くんが真ん中からしれっと返してきた。イジリだってことは宗介のフッとした笑顔が物語っている。尊敬している宗介からの若干ぞんざいな扱いにショックを受ける反面で、友達としての距離が近づいたみたいでちょっと嬉しい。
   ここは真琴くんがトレーナー候補生として、宗介が選手として復帰するため加入にしたスイミングクラブ。泳げない私は施設内のジムに一般利用として入っている。

「この距離、なんか久しぶりだ」

   高校のときはよくプールサイドに顔を出していたけど、大学に入ってからはほとんど無くなってしまった。大学選手権前に遙に呼ばれて行った区民プールくらいだと思う。いろんな人が通って濡れたプールサイドと、室内にやんわりと充満している塩素のにおい。今泳いでいる人たちから発せられる水を弾く音。高校二年間、ずっと近くで見て、応援して、高揚させられてきた遙の泳ぎが、これから世界の人の目に触れようとしている。なんという贅沢。なんという、光栄。

「茅、全日本はそわそわしてたのに今日は落ち着いてるね」
「うん!世界大会初出場は今日だけだから!しかと目に焼き付けなきゃもったいないもん!まばたき!もったいない!」
「これのどこが落ち着いてんだよ」
「うん、ごめん。全然落ち着いてなかったね」
「見てるこっちが冷静になるな」

   いつもよりテンションが上がってしまっている自覚ならある。だって、もったいない。もったいないなんて言葉じゃ言い表せないくらい、もったいない。せっかくの晴れ舞台を緊張と不安に苛まれた心で見るなんて、もったいないんだ。はじまるよ、と緊張をおおいに孕んだ顔で真琴くんが紡ぐ。私と宗介はほぼ同時にタブレットを覗き込むと、順番に海外選手が入場していくところだった。とにも、かくにも。

「今日は楽しみが勝ってます!」

   英語のアナウンスと同時に遙が見慣れないジャージを纏って入場していく。一歩、また一歩とその歩みが進むたびに心臓の音が大きくなるような錯覚に襲われて、ぎゅっと胸元を握る。痛む心臓に酸素を送るために深く息を吸った。
   スタート台へ上がる遙の姿を、瞬きをしてなるものかと目を見開いて見つめる。真琴くんが、宗介が、どんな顔で見ているかなんて確認する暇は無い。ただでさえ上がっていた口角がますます上がっていく。たった十インチの中に広がる世界から、目が離せない。


−−−ああ、いよいよだ。


大事に見つけた大事な夢
初の世界大会、最初の一歩
夢を見つけたあとの、きみの、フリーに


「期待してるよハルちゃん!」


『 " −−−Take your marks " 』



↑↓


   用事を終えて最寄駅の改札を通る頃には二十一時を回っており、駅の人通りも少ない時間帯になっていた。夜空をふと見上げれば、今日も北斗七星がキラキラと輝いている。夜はもうすっかり冷える時期になったからか、空気が澄んでよく見える。

「あれ?遙?」

   視線を帰路に戻すと慣れ親しんだ顔が外灯に照らされる。反射的に名前を呼ぶと海の色をした瞳と目が合って、すぐにパタパタと駆け寄った。

「やっぱり遙だ!おかえりなさい!」
「帰ってきたのはお前のほうだろ」
「無事の帰国についてのおかえりだよ!っていうか、なんでここにいるの?今日は真琴くんのお家に行ってるんじゃなかった?」

   シドニー大会が終わって数日が経過している今日。遙と郁ちゃんから帰国の連絡と、真琴くんから遙と会う約束をしたという連絡が一昨日くらいに来ていたのは記憶に新しい。気持ちの整理をつける邪魔になるだろうと思って、試合後こちらからは一切の連絡はしなかった。
   今日についてはどうしても外せない用事があったし、きっと二人で話したいことがたくさんあるだろうと思って真琴くんには断りの返事をした。遙がうちの最寄駅にいる理由が分からず率直に尋ねると、うっすらとタッパーのようなものが透けて見えているビニール袋を差し出された。

「筑前煮。今日真琴の家で作り過ぎた」
「それでわざわざ持ってきてくれたの?」
「好きだろ。お前」
「わぁーい!うん!遙の筑前煮好き!ありがとう!」
「一応真琴も手伝ってる」
「じゃああとでお礼のメッセージ送っておくね」
「ああ」
「にしても、連絡くれたら真琴くんのお家寄ったのに」

   遙の家ほど近くはないけど、真琴くんの家もさほど距離があるわけではない。出先からならなおさら。なかなか口を開かない遙の顔を覗き込むと「渡せたんだからそれでいいだろ」とそっけなく返されて、ふにゃりとほっぺたが緩む。遙は照れを隠すようにくるりと駅に背を向けて、わざわざ持ってきてくれたという袋は自分の手に下げたまま、来た道を辿るように歩き始めた。えっ。

「茅」
「えっ」
「早く来い。帰るぞ」

   二、三歩足を進めた遙が振り返る。つまりはそうゆうことなんだろう。いつもなら躊躇しないところだけど、今日ばかりは首を横に振った。

「大丈夫だよ?まだそんなに遅くないし、帰ってきたばかりなんだから、遙はちゃんと身体休めなきゃ」
「このくらいで疲れるほどヤワじゃない」

   そんなこたぁ分かっている。うーーーん、でもなぁ。そう渋っている間に遙がまたスタスタと歩きはじめてしまったので、お言葉に甘えて隣を並ぶことにした。この時間帯、この辺りは人通りが決して多くない。けど街灯も住宅も多く、治安が悪いわけでもない。いつの間にか私に歩幅を合わせるのが当たり前になった遙の足音が、私とほぼ同じタイミングで鳴る。ふへへっ、と気づけばだらしのない笑い声が静かな空間を破っていた。

「? なんだ」

   不思議そうに揺れる遙の青い瞳が見下ろしてくる。特別我慢するでもなく、だらしないままの笑顔で遙を見上げた。

「ほんとは嬉しいよ!遙と話す時間が出来て」
「……そうか」
「うん!」
「……………」
「………うん?」

   明るく頷いてみせたつもりだったところに遙が何か言いたげに口を開いた。でもそれは一瞬だけで、すぐに閉じてしまう。浮かない顔だ。今度は私がなんだろうと思いながらぱちぱちと瞬きをして言葉を待っていると、進行方向へと目を逸らされながら、今日は、とささやかに紡がれる。

「郁弥に、会ってきたのか」
「へ?」
「真琴がそうなんじゃないかって言ってた」
「うーん……?……あっ、そっか、遠野くんたちが会う約束してるって言ってたからかな」
「…………」
「ええと、実はね、冬休みから陸上の社会人クラブでコーチのアシスタントとして入ることになったんだ」
「アシスタント?」
「週に二日なんだけどね。主に雑務を引き受けると思うけど、統括コーチが実業団を見てきた人だから、すごく貴重な時間が得られると思う。今日はその挨拶と説明を聞きに行ってきたんだよ」

   練習時間が夜だから、この時間になっちゃって。そこまで言い切って、遙の目が再びこちらを向いた。

「今のバイトは辞めるのか」
「とりあえずダブルワークかな。今より忙しくなっちゃうけど、でも大丈夫!たぶん!」

   燈鷹大学の近くの飲食店のバイトは土日入れて現在週に三、四日。調整してもらうにしても、勉強や課題の時間がこれまでどおり確保していくとなると、慣れるまで時間がかかるかもしれない。コーチのアシスタントの話はシドニー大会が始まる前から出ていたけど、そのときよりももっと、今はやる気に満ち溢れている。だって、あんな試合見せられて、士気が上がらないわけがない。

「遙たちの試合を見て、私もね、もっと強くなりたいって思った。世界一になるための練習を、世界で一番した人が勝ちの世界にいる人たちを支えられるように」

だから、今よりもっと頑張るんだ。

   支える側の私たちは、強い人を強くするために、強くならなきゃいけない。選手がどうしようもない気持ちに駆られている時間さえ、前を見続けて、尽力するべく、強さを備えて、育てていかなきゃいけない。そう強く思った。

「大丈夫だ。茅なら」

   まっすぐと見上げた先で、遙に真剣な眼差しを向けられる。お世辞なんかじゃない。声の色ですぐに分かって、またゆるりと頬が緩む。

「……へへ、贅沢だなあ」
「贅沢?」
「うん!」
「なんだ。贅沢って」
「え?そのまんまの意味だよ?」
「………?」
「ハルちゃんは私の推しで、親友だから。推してる選手に信頼されてるの、贅沢に決まってるよ!」

   嬉々として告げてみせると、真剣な眼差しから一転、その瞳が丸くなる。ほんの数秒見開かれていた目はすぐに物言いたげに細められた。

「ちゃん付けは、」
「だからね、次も楽しみにしてるよ!」

   そんなの構うものかと立ち止まり、にやりと笑って拳を突き出す。真琴くんほど遙の心の内側は分からないけど、大きな大会直後にしては落ち着いているみたいで、頭の端っこでひどく安堵した。でも時折表情には疲労が滲んでる。消耗してて、当たり前だ。メンタルも、フィジカルも。

   −−−自分より、数秒、もしくはコンマ数秒、速いだけ。

   でもたったそれだけがとんでもなく心を抉りにくる。次の一点がある球技とは異なる、ただ速さを競うスポーツ。陸上のトラック競技と似ていると思う。経験したことはある。あくまで"経験"だ。遙や凛、郁ちゃんの気持ちが分かるなんて烏滸がましくて、とても言えない。ましてや死神、もとい神に負ける気持ちなんて、到底分かりはしない。だからこそ、選手の敗北から絶対に目は逸らさない。彼らを鼓舞できる存在で、彼らの中で変わらない存在で、頼もしい存在で在りたい。これまでも、これからも。

「ハルちゃんがこれから先、どんな道を選んでも、どんな結果を出しても、私たちは絶対、ハルちゃんに失望したりしないよ」

   私はハルちゃんを、変わらず応援し続けたい。祈りも願いも全部込めた拳に、同じように立ち止まった遙の拳がこつんとぶつかる。次の遙の言葉で、二人のくすりと笑う声が重なった。


「次こそ、応えてみせる」


何も、捨てずに。


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