準備がまだ少し残っているけれど、どうしてもバイトが休めなかったので先に帰らせてもらうことにした。みんな快く送り出してくれるんだから、私の周りは本当にいい人たちばっかりだ。しばらく放置していたスマホに郁ちゃんから練習が終わったと連絡が来ていたこともあり、上機嫌で校門を目指して歩いていると後ろから「瀬戸!」と呼ぶ声がして振り返った。

「ヨシダくん、どうしたの?」

   その先にいたヨシダくんは走って追いかけてきてくれたのか、呼吸が短くなっている。そしてすぐにぱんっと両手のひらを合わせて軽く頭を下げられた。えっ。何事だ。

「さっきごめん!」
「え?さっき?」
「桐嶋と付き合ってると疲れそうとか、変なこと言って」
「………あー、あれ!全然気にしてないよー」

   気にしていなさすぎて一瞬なんのことだか思い出せなかった。遙が荷物を運んでくれている間も久しぶりに二人で喋ったから会話に花が咲いていたし、すっかり頭からは抜け落ちていた。ひらひらと手のひらを向けて気にしていない素振りを見せれば、ヨシダくんはさっきみたいに気まずそうな表情を浮かべて、居心地が悪そうに首の後ろに手を当てた。

「正直言うとさあ、瀬戸の不安を煽って漬け込みたかったんだよ」
「ふあんをあおる?」

   一体なんだそれは。不安、煽る、という個々の単語の意味ならもちろん分かるけど、言葉の意味は分からずに首を傾げる。

「俺、結構意地悪だろー?」
「よく分かんないけど意地悪はやめたほうがいいね!」
「ははっ!ごめんごめん!瀬戸のこと好きでさ、つい!」

「………………へ?」



   そんな会話をしたのはもう数時間も前のこと。バイトから帰ってお風呂もすべて済ませて、今はベッドの上でごろごろしている。

   それからどうなったのかと言うと、数人が行き来する校門前でヨシダくんは人目も気にせずに「入学式のときから気になってた」「いつも笑ってるところが好き」「意外と勉強熱心なところが好き」と、そのほかにも褒める言葉を並べてくれて、まっすぐに気持ちをぶつけてくれた。全然、ちっとも、気がつかなかった。そして意外ってなんだ、意外って。
   呑気にぽかんとしたままだった私は、全部聞き終えてからようやくはっとする。すぐに「ご」と一文字目を発したけれど「いや秒殺すぎじゃね!」と遮られた挙句、

「答えが決まってんのは承知してるけど、一晩だけ考えてくれよ!じゃあまた明日な!」

   そう言い残されて引き止める間も与えられず、颯爽と走り去られてしまった。

   ヨシダくんの言うとおり、答えはもう決まっているし今でも変わっていない。決まっているのにちょっと憂鬱な気分になるのは、これからヨシダくんと気まずくなったりするのかという心配が少なからずあるからだと自覚はしている。
   郁ちゃんと奇跡的に両思いになった今だからこそ余計に悶々としてしまう。もし郁ちゃんが、好きな人が自分以外の人を好きだっていうのは、もしもの話だとしてもすごく悲しい。エミちゃんに相談してみようかな。でも相談したところでどうしようもない。それにエミちゃんも当たり前にヨシダくんを知ってるし、言いふらすみたいなことしないほうがいいよね。

「うわ!」

   メッセージを送ろうかどうしようか迷っていると、持っていたスマホが突然震え出した。テレビもなにも付けていなかったから情けない大きな声が部屋に響く。表示される"桐嶋郁弥"の文字。やけに通知が長い気がする。
   ………………あれ?本当に長い…………って、ちがう!電話だ!気がつくのに数十秒を要して、慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし!」
『ごめん。寝てた?』
「ううん起きてた!すごく起きてた!」
『ふふ、なにそれ』

   焦りが声に混ざりに混ざりまくっている。その焦りで昂った気持ちがだんだん嬉しい気持ちへと変わっていく。頬が緩むまで全然時間がかからなかった。

「郁ちゃんどうしたの?電話なんて珍しいね」
『………悪い?』
「全然!嬉しいよ!」

   郁ちゃんとの電話といえば、待ち合わせしてるときに今どこ?とか着いたよとか必要最低限のものしかしたことがない。メッセージなら郁ちゃんが忙しいときでも好きなタイミングで返事をしてもらえばいいだけだから、特に電話をねだろうと考えたこともなかった。
   用事はあるわけじゃないのかな?それなのに電話くれたのかな?尋ねた理由についてなんだろうかと都合良く予想していると、すうっと息を吸う音がすぐそこで鳴る。

『最近、会えてなかったし、』
「うん」
『…………』
「うん?」
『………言わせようとしてる?』
「あ、ばれちゃった」
『茅の考えそうなことくらい分かるよ』

   溜め息の混ざった声が聞こえる。耳元で話をされてるみたいで、緊張とまではいかないけどすごくくすぐったい。電話だからかいつもより声が落ち着いて聞こえて、変な感じだ。

「言ってくれないの?」
『言わなくても分かるでしょ』
「えー分かんないよー」
『今日バイトだったんだよね。お疲れ』

   話を逸らされてしまって、言わせたい言葉を聞くことは出来なかった。でも隠れているものが何かは分かる。予想通りで間違いないだろう。郁ちゃんから電話ってだけでも嬉しいのに、最近会えてないからかけてきてくれたなんて。にやにやしないほうが無理だ。電話だと顔が見えないので、にやけているのは気づかれていないはず。声でばれないように「ありがとう!郁ちゃんもお疲れさま!」と出来るだけ自然体を装った。

『準備は終わった?』
「うん!でもバイトで先に帰らないといけなかったから、残りはみんなに託してね、それで、」

   今日遠野くんと話したこと、遙にも会ったこと、明日のこと。話したいことが次から次へと思い浮かんでくる。しかし、そこでぴたっと言葉が止まってしまった。

   とある思考が、頭をよぎったから。


『………どうかした?』

   急に黙った私の様子を伺うように、名前を呼ばれてはっとした。……どうしよう。ええと、と迷いながら言い淀んで、とりあえず今はへらりと笑った。

「なんて言おうとしたんだっけ……」
『僕が知るわけないでしょ』
「へへへ、話したいことたくさんあって、忘れちゃった」
『もう、なにそれ』

   呆れた声に少しほっとする。数秒の間に脳をフル回転させて考えたことはヨシダくんについてだった。
   こうゆうときってどうするべき?告白されたって正直に話すべき?ホウレンソウ、報告、連絡、相談?付き合っているんだから、ちゃんと言ったほうがいいのかな。言ったら心配しちゃうかな。でも言わないほうが心配する?隠してるみたい?うーん、けど断るんだから、そもそも言わなかったら知ることは無いわけだし。郁ちゃんは大事な大会前だし。余計な心配は、かけたくないなあ。

   話をしている途中、何度もそのことが思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消えるを繰り返していた。その都度同じ結論に辿り着くものだから、最終的に思い出さなくなっていた。ほんの少しの、うしろめたさだけを残して。


「わ、もうこんな時間だ。ごめんね遅くまで」

   話に夢中になっていたら気づかないうちに日付が変わっていた。私はともかく郁ちゃんは練習後で、大事な時期だ。油断した。そろそろ寝よっかと慌てて言うと向こう側からは『あー……』となにかを迷うような声が聞こえてくる。

『今日、電話したのは、』
「うん?」
『…………』
「………?」

   なかなか続きが聞こえてこない。でもここでまた聞き返すと何も言ってくれなくなりそうで、沈黙を貫いて待っていた。

『………茅の声、聞きたかったから』

   数秒の沈黙が破られて、通話が始まったときに隠された言葉が時間差でやってくる。どうして今?とも思ったけれど、疑問以上に嬉しい気持ちのほうが上回った。ふふ、なんだか恋人同士みたい。……いや恋人同士なんだ。いろんな意味で浮かれた気持ちを我慢できず、ふへへっとだらしない笑いがこぼれてしまった。

「郁ちゃん、かわ」
『可愛くない。もう切るから』
「ふふ、えへへ」
『ちょっと』
「ふふっ!あのね、私も郁ちゃんの声聞きたかったんだ」
『………そう』
「うん!だから、すごく嬉しいよ」
『………………僕も』

   小さな同意の言葉が聞こえた。とろんと何かが溶けるような感覚が身体中に広がったのも束の間『じゃあおやすみ』と逃げるように電話を切られてしまった。スマホに表示される通話終了の文字と通話時間ににやにやが止まらない。おさまらない。
   郁ちゃんに会いたい、なんて。今まで何度も思ったのに、今までとは全然ちがう。恋人ってすごい。こんなにふわふわした気持ちでちゃんと眠れるのか心配だ。

   はやく、はやく明日に、ならないかなあ。


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