himawari episode.12


「茅、ハルと年末に何かあったのかなあ……」

   置いて行かれたチョコレートを口に含みながら貴澄がしょんぼりとこぼす。さすがに勉強を続ける雰囲気では無くなってしまった上に茅が飛び出して数分後に月紫が起き出したことで勉強会自体は自然とお開きになっていた。勉強道具を片しながら日和が「どうして年末?」と疑問符を浮かべる。

「帰省したとき茅と駅のホームでばったり会って、途中まで一緒に帰ったんだよね。僕が先に電車降りたし、ちゃんと家についたかなって連絡したの。そしたら『うとうとしてたら降りる駅間違えちゃった!でも遙が迎えに来てくれるから大丈夫〜!』って言ってたからさ」
「じゃあハルに最後に会ってたのは瀬戸だったってことかよ?」
「うーん、それは分からないけど」
「……………」

   腕に月紫を抱いている旭がしょんぼりと肩を落とすと、落ちた肩を励ますようにぺんぺんと小さな手のひらが肩を叩く。その光景に少し空気が和らいで、三人はふっと口元を緩めた。一人、浮かない表情のままでいた郁弥に気がついた貴澄はふわりと微笑む。

「ハルがたまたま用があって電話かけてきただけだって言ってたよ。迎えはそのついでだったんだって」
「………そう」
「ハルの用ってなんだったんだ?」
「さあ。そこまでは聞いてないよ」
「喧嘩でもしたとか?」
「ハルと茅が喧嘩するなんて、僕には想像つかないけどなあ」

   日和の質問に意見を述べながらぱくりともうひとつチョコレートを口に放る。そう言い切ることが出来るのは、この中で一番長く二人を見てきた貴澄だけで、郁弥と日和、旭はどうしてそう思うのかと純粋な目を向ける。

「茅ってさ、陸上だめになったときに結構言われてたんだよね」
「なにをだよ?」
「かわいそうとか、残念とか。……かわいそうが一番よく聞こえてきたかな。今思えば、周りが勝手に茅はもうダメだって決めつけてるような時期だったのかも」

   きっとそれがちょっとずつ茅の心を枯らしていっちゃったんだよね。終始穏やかな声で貴澄が遠くを見つめながら言う。話の流れから辿り着く答えはひとつで、それを言葉にするべく口を開いたのは旭だった。

「瀬戸がハルに励ましてもらったって言ってたの、やっぱそれだったのか………喧嘩じゃないにしても、無理に割って触れられたくないことだったんだよな」

   悪いことしちまった、と再び旭が肩を落としたとき、ぴろんとスマホに軽快な通知が届く。鳴ったのは郁弥のスマホで、内容を確認するなり既にまとめてあった鞄を肩にかけて立ち上がった。


↑↓


「ほんとにいた」

   一瞬波の音が聞こえなくなって、その声だけが頭に響いてきた。聞いただけで誰かなんてすぐに予想が出来て、でもそんなわけないと矛盾したことを思いながら呼ばれたほうへ顔を向ける。そんなわけない、はあっさりと覆された。驚いたみたいなことを口にしている割に、その両手にはコンビニコーヒーの紙コップがひとつずつ握られている。

「…………いくちゃん、なんで」
「まっすぐ帰るように見えなかったし、真琴に聞いてみたらもしかしたらここかもって」
「まことくん……?」
「うん」
「ま、まことくんにはなんて、」
「茅が行きそうなとこ聞いただけ。詳しいことは何も言ってないよ」

   出てきた登場人物に少し血の気が引いたような気持ちになったけど、言われた言葉にほんのちょっとだけ安心した。郁ちゃんが距離をつめるたびに木の床が音をたてる。さっきまで足音、全然気がつかなかった。それくらい、頭がいっぱいだった。頭がついていかずに呆けていたら「はい」と目の前にフタのついた紙コップをひとつ差し出されて、咄嗟にそれを受け取った。まだ買いたてほやほやのようですごくあたたかい。

「カフェオレにしたけど、よかった?」
「う、うん、ありがとう……」
「………来る途中にどこかで転んだの?」
「え?………あ」

   なんのことかと一瞬考えて、すぐに何か思い当たる。投げやりになりすぎて忘れていたけど、風でめくれたスカートから覗いている膝が冷たい風に触れてヒリヒリと悲鳴を上げていた。転んだばかりのときにはそんなに出ていなかったはずの赤色は、今やべったりと表現出来るくらいに染まっている。よく見ればスカートの裾にもところどころ血が滲んでしまっていた。

「ちゃんと洗った?」
「ううん。転んでから、そのまんま……」
「今日は絆創膏持ってないの?」
「………小さいのは、あるけど」
「じゃあ買ってくるからちょっと待ってて」
「えっ、だ、大丈夫だよ!これくらいほっといても、全然」
「僕が大丈夫じゃない。いいから待ってて」

   私が腰掛けている横にもうひとつのカップを置くなり、有無を言わさない勢いで颯爽と踵を返す郁ちゃんを止める術はなく。大人しく待つことにした。隣に置かれた郁ちゃんのコーヒーかカフェオレなのか分からないカップ。このままほうっておいたら冷えちゃいそうだ。それが申し訳なくて、空いてるほうの手で握り込んで出来るだけ風が当たらないようにと胸元に寄せた。冷たかったクッキーも一緒にあったかくなるような気がして、胸の中の冷たいものが溶けるみたいな、不思議な気持ちになる。
   一番近いコンビニはここから徒歩二分の場所だ。持ってきてくれたカフェオレの紙コップにはそのコンビニの文字が印字されているから、もしかしたら行くのは二度目なのかも。店員さんにこの子また来たって思われるの、嫌じゃないのかなあ。ぼんやりそんな心配をしていると五分弱くらいで足音が戻ってきて、また顔を上げる。そこにいたのはもちろん郁ちゃんだった。

「お待たせ。持っててくれたの?」
「置いておいたら冷めちゃうかなって、思ったから」
「………先に飲んでてもよかったのに。ありがと」

   ちょっと困ったような顔で笑いながら私の前にしゃがみ込む郁ちゃん。お買い上げシールの貼られた絆創膏の箱をコートのポケットから取り出して、迷わずそれを開封した。本当に買ってきてくれたんだ。この現状にまだちょっと実感が湧ききらなくて、驚きながらもお金、と呟くと「そんなのいいから。見せて」と強めに言われた。よくないとは思いつつ、言われたとおりに膝を伸ばす。

「帰ったら、ちゃんと消毒してよ」
「………うん」

   開けてくれた絆創膏が直接傷に触れて、ピリッと鈍い痛みが走った。慎重に貼ってくれる手が丁寧で優しくて、あたたかい。二月の寒い気温の中、手があたたかくなる理由なんて多くはなかった。急いでくれたのかな。そんな想像が頭をよぎる。

「………郁ちゃんは、どうしてここにいるの?」

   貼り終えた手が離れると同時にさっきと同じ質問を自然と口にしていた。ちらりとこちらを見た大きな瞳に身体が怯んで、一瞬びくりと肩が竦む。おそらく気がつかれただろうけど、郁ちゃんは特別咎めたりしないで口元をほんのちょっと緩めただけだった。

「茅がコーヒー持っててくれたのと似たような理由」
「………似たような?って?」
「一人で寒いところにいたら、余計に寒いでしょ」

   そう言って隣に腰をかける。いつもは人目についてもいいくらいの距離を保って座っているのに「こっちのほうがちょっとはマシじゃない?」なんて口にして、手のひらひとつ置けるくらい距離まで詰めながら手に持ったカップを攫っていく。普段よりも近い距離にびっくりしてまた少し肩が跳ね上がる。でも離れてほしいなんて思えるはずも言えるはずもなくて、ただ黙って頷いて、もらったカフェオレに口をつけた。
   あたたかいものが冷えた喉を通って、張りつめていた緊張の糸がほぐれる。少し落ち着いた頭で真っ先に浮かぶ、いつも明るい友達のこと。聞くのが怖い。けど聞かなくちゃ。郁ちゃんは優しいから、自分からは話題に出してこないだろうから。

「………しいな、くんは……?」

   手元に目を落としたまま細い声でおそるおそる尋ねる。波の音がざあって大きくなったから郁ちゃんの耳にはちゃんと届かなかったかもしれない。視界の端で郁ちゃんがこちらを向いたのが確認出来たけど、どんな顔をしているのかまでは見る勇気は出なくて顔は上げられなかった。

「気にしてたよ。悪いことしたって」
「っ、椎名くんは!、わるく、なくて……」

   ばっと勢いよく顔を上げて、言葉の途中ではっとした。はっとしたけど動いていた口はすぐに止まってはくれなくて、だんだんとボリュームを落としていった。郁ちゃんの驚いた顔が至近距離にある。まただ。また、やってしまった。

「ご………ごめん………なさい………」

   小さな謝罪をこぼしながら、また顔を俯かせる。今ので二回目だ。さっき椎名くんにも大きな声を張り上げて八つ当たりをして、後悔したばっかりだったのに。一体何をしているんだ私は。波の音だけが響く沈黙がいたたまれなくて、さっきよりも小さいごめんをもう一度口にする。それから続けて口を開く。

「………わたし、さっきも大きい声出した」
「普段喋ってる声とそんなに変わらなかったよ。茅も旭も声大きいし」
「腕、つかんじゃった」
「旭は鍛えてるから、あれくらい平気」
「………逃げて、空気、わるくさせちゃった」
「うん。だから、僕が来たんでしょ」
「っ、」
「でも、茅がそれでも自分が悪いって少しでも思うなら、謝ったほうがいいと思う」

   一度出たら止まらない弱音にひとつひとつ丁寧な返事が返ってきて、息を呑んだ。言葉を失う私を置いて続いた郁ちゃんのまっすぐな声に強く鼓膜を揺さぶられる。言葉が出てこないまま、じっとその大きな瞳を見つめていたら今度はその目がゆるりと視線を下げた。

「……それ、本当はハルにあげようとしたの?」

   つられて落とした視線の先、私の手元にはクッキーがある。もちろん図星だ。けどそうだって言ったらさっきまろんで言ってたことが嘘だってばれちゃう。本当はハルちゃんにも真琴くんにも会うつもりだった、会いたかったんだってばれちゃう。言葉に迷って、代わりにぎゅっと手に力を込める。くしゃ、とラッピングが音を立てた。

「もらってもいい?」
「えっ」
「もらうね」

   もらうね、と聞こえたときにはもう一枚攫われていて、何も言えずに攫われたクッキーが郁ちゃんの口へと運ばれるのを見ていることしか出来なかった。

「………ん、美味しい。茅、本当に料理上手なんだ」
「ち、ちが………ちがうの」
「え?」
「お菓子作りは、ちょっと苦手、で」
「そうなの?」
「うん………なんか、いつも上手に出来なくて、去年とか一昨年とかもっと形ひどくて。でもハルちゃんと真琴くんは、いつもちゃんと食べきってくれて、それで、だから今年も、今年は、ちゃんと………」

   隠したいのに、隠せない。隠しきれない。自分の弱いところ、どんどん全部声と言葉になって落ちてっちゃう。それに気がついて口を閉ざすと。

「ゆっくりでいいから、続き教えて?」

   優しい声が降ってきた。顔を上げた先の郁ちゃんはその声と同じくらいに優しい目をしていて、また驚いた。頭のなかが少し空っぽになる。続きは勝手に動いた口が紡いでいた。

「……ハルちゃんと真琴くん、失敗しちゃっても毎年ちゃんと食べてくれるから、だから、今年はちゃんと綺麗なの、あげたくて」
「うん」
「郁ちゃんのやつは特別に、頑張って作って、こっちの二人のやつはエミちゃんたちにもあげる用で作ったやつの、一番綺麗なやつ包んで、ふたりに、いつも、ずっと、ありがとうって、言いたかったの」

   落ち着かせたはずの声が徐々に感情を乗せて、どんどん震えたものになっていく。言葉も全然組み立てれてなくて、自分でもなにを言ってるのかよく分からないまま、口は仕舞い込んでいた本音だけを落としていく。

「だけど………っ、できない………」

   自然と手に力が入った。さっきみたいにくしゃ、とラッピング袋が音を立てる。言葉にした途端、じわあと視界が一気にぼやけた。
   小さな岩鳶の町で、いつだって会えていた二人に会えない。毎日交わしていたおはようも、またねもありがとうも、もう言えない。今のままじゃ言えない。これからももしかしたらもう、言えないのかもしれない。もし会えたとしても、こんなに情けないわたしでいいのかな。もうハルちゃんと真琴くんと、並んで歩けないのかもしれない。

「本当はずっと聞きたかったんだけど」
「…………」
「……ハルとなにかあった?」

   溢れ出る弱音を堪えながらなにか、と聞かれて考えてみる。喧嘩をしたわけでもない。怒られたわけでもない。私とハルちゃんの間になにが起きたのか、私自身正直きちんと理解できてない。でも理解できていないからこそ、余計に辛い気持ちだけが重く、鋭く、蓄積されている。
   目に溜まったままの涙が落ちないように控えめに頷く。すると隣から「やっぱり」と落ち着いた声が返ってきた。………やっぱり?

「………気づいてたの……?」
「うん」
「じゃ、じゃあ、なんで」
「聞いてほしくなさそうだったから。茅は聞いてほしいことだったら自分から話してくれるでしょ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「話してくれないから離れるとか、ハルと何かあったから離れるとか、しないよ」

   思わず目を見開いた。そんなことを言われるだなんて思ってもみなかった。思ってもみなかったはずなのに、何かがすとんと胸のなかに落ちる。

「茅はハルが水泳部辞めても僕と一緒にいてくれたし、大学で再会して、僕が逃げても追いかけて、信じて、待っててくれたよね」
「僕もそれと同じことしてるだけ」
「僕がそうしたくて、してるだけ」
「彼氏の前に、僕だって茅の親友でしょ」


ねえ、" 郁ちゃん "

どうして返事、くれないの。



   いつか隠し続けていた言葉が頭に響いて、涙がぽろぽろ落ちてきた。ハルちゃんが泳いでくれたあの日、諦めたものが目の前にあった。郁ちゃんがまたいつか遠くにいっちゃうなんて考えたことはないし、ハルちゃんを郁ちゃんの代わりだとかそんなふうに思ったことは絶対にないけど。それでもくれた言葉に、ひどく安心してしまう。
   膝を抱えて嗚咽を必死に堪える私の肩を郁ちゃんは守るように抱いてくれた。時折背中を撫でる手が、時折頭をぽんぽんと弾む手が、優しくてあたたかい。無理に落ち着かせようと自分を抑えるたびにその手が嬉しくて、結局涙が止まるまでに結構時間がかかってしまった。でも郁ちゃんは何も言わずにずっと隣にいてくれて、最後にそっと手を取ってくれた。

「身体、随分冷えちゃったね」
「………うん」
「帰ろっか」
「うん」

   取られた手に支えられて立ち上がる。そのまま手を引かれて久しぶりに見惚れた。サラサラ揺れる後ろ髪。どうしてここ最近見なかったんだろうと自問して、自答する。郁ちゃんはずっと隣を歩いてくれたから。もしくは向かい合ってくれるから、見る機会が自然と減っていたんだと気づく。

「郁ちゃん。来てくれて、ありがと」
「………当たり前でしょ」

   でもきっとそれだけじゃないんだろうとうっすら気がついて、その手をぎゅっと握りしめた。


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