himawari episode.11


「お。あった」
「っ椎名くん!!!」

   おねがい、しないで。なにもしないで。指が止まると同時に、ほんの数秒で大きく張り詰めたものが声になってぱちんと弾けた。気づけばスマホを持つその腕に両手を置いて、全身でその行動をどうにか制止しようとしていた。

「………やめて」

   しんと静まった店内にか細い声がぽろりと落ちる。自分でもびっくりするくらい弱々しい声だった。握りしめる両手が、かたかたと小刻みに震えている。顔は、上げられない。椎名くんがどんな顔をしてるのか、遠野くんと貴澄くんがどんな顔をしてるのか、郁ちゃんに声が届いてしまったのか、何ひとつ分からない。その代わり、椎名くんのスマホがまだどこにも繋がっていないことは確認ができた。

「おねがい、やめて」
「瀬戸……?」
「っ………おねがい………」
「………お、おう。わりい………」
「……………」

   椎名くんのパーカーの袖をきつく握りしめていた手をほどいて、ゆっくりと下ろす。心臓が嫌な暴れ方をしている。呼吸が浅い。顔は未だに上げられないし、手もまだ震えたまま。鼻の奥が、胸の奥が痛い。全身が訴えている。もう、だめだよ。隠しきれないよ。上手に笑えないよ。痛いよ。
   分かってる。椎名くんが善意でしてくれたこと。すごく優しい人だから。でもあの日、電車が行ってしまったことが。ハルちゃんに目を逸らされたことが。ハルちゃんに置いてかれたことが。ハルちゃんから返事をもらえないことが。ハルちゃんとの日々が全部、ひっくり返ってしまったことが。ずっと鋭く冷たく、胸にぐっさり刺さったまま。痛い。痛い。悲しい。辛い。いたい。いやだ。

   痛い。

「ごめんね。今日は、帰るね」
「っ待てよ、瀬戸」
「ごめん」

   何に対して謝ってるのか自分でもよく分からない。一刻も早くこの場を去りたくて、一人になりたくて、落ちる準備をはじめている涙を誰にも見られたくなくて、適当に荷物をまとめていつもより重く感じるドアを開く。冷たい空気に触れるなり一目散に駆け出した。
   後ろから椎名くんの呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、気のせいだ。だって気のせいじゃなくたって、どうせ振り向くことも立ち止まることも、今の私には選択肢として存在すらしていない。大丈夫、陸の上なら絶対に追いつかれないから。





   家に帰った。でもハルちゃんと最後に会ったあの駅に電車が停まったとき、またなんとなく日常に戻っていくことを想像したら怖くて、一度降りてまた反対方向の電車に乗った。

   日常ではない場所へ、行きたいと思った。


「いっ……たあ……」

   どさっと派手に倒れ込む。ふらついていたせいか自分の足に自分の足が引っかかって転んだらしい。じくじくと膝が集中的に痛むので何事かと見てみれば、めくれてしまったロングスカートから覗くタイツが無残な姿になって、その先の素肌からはじわじわと血が滲んできている。
   幸いなことに目的地には季節的に人気は全くなく、かっこわるい姿を誰にも見られずに済んだ。帰りの電車で人に血のついたスカートを見られるかもしれないけど、そんなこと、今はどうだっていい。

   もう少し、と再び歩きはじめる。ずきずきと痛む膝と胸を抱えたままやってきたのは、全日本選抜後に訪れた海岸だった。時間もちょうど同じくらい。でも日が短くなってるからもう周囲は薄暗くなりはじめてて、東京の街の光とほんの少し残った夕陽がところどころ海面に反射して光っている。気温も低い。風もそこそこあって冷たい。
   あの日と同じ場所まで辿り着いたところで崩れ落ちるように腰掛ける。どさっと少し乱暴に地面に触れた鞄からひとつの袋が顔を出していた。

   青く染められた小さなかすみ草をブルーグレーのシールで飾りつけたラッピング袋。真琴くんの分には同じように黄緑色に染めたかすみ草をカーキのシールで飾りつけてある。去年も二人にはお揃いのラッピングをした。
   取り出したラッピング袋から留めたテープを乱雑に剥がして中を覗いた。入っているチョコクッキーは転んだ拍子にもしかしたらと思ったけど特に割れた様子もなく、作ったままの形状を綺麗に保っている。郁ちゃんのを特別に作ったというのは嘘じゃない。けどエミちゃんたちと交換用でもう一種類別で作ったものを用意していて、ハルちゃんと真琴くんの分はその中でも特に上手なのを選んできた。
   ぱく、と口にひとつ含む。お菓子作りは普段の料理よりちょっと苦手だけど、今回は上手に出来た。チョコレートの甘さがしっかりあって美味しい。これならきっと上手だ、美味しいって、二人とも褒めてくれる。去年はちょっと失敗しちゃったけど、ハルちゃんも真琴くんも最後まできちんと食べてくれたよね。だから来年はって、今年こそはって。

「…………おもってたんだけどなあ」

   冷たいクッキーをごくんと飲み込むと、代わりにぼろりと熱いものが落ちた。すぐに冷たい風に冷やされて、ほっぺがじわじわ冷たくなっていく。
   会えるかもって、本当はどこかで期待してた。そのくせいざとなると、もう一度連絡する勇気もない。ない上に、背中を押してくれようとした手を払い退けてしまった。だって、怖い。また拒絶されちゃったら、どうしたらいいか分からない。今でも分からないでいるのに。ハルちゃんにも真琴くんにも強くなるって宣言したのに。それに伴えない自分が、心底嫌になる。

   海が好きだ。郁ちゃんをいちばん応援するって伝えた場所だから。海が嫌いになりそうだった。郁ちゃんとさようならをした場所だったから。海がまた好きになった。ハルちゃんと真琴くんが手を差し伸べて、救ってくれた場所だから。海が好きだ。ハルちゃんと真琴くんと、水泳部のみんなが居場所をくれたから。海は特別だ。ハルちゃんが、応えたいと言ってくれた場所だから。
   特別で大好きだ。ハルちゃん、真琴くん、渚くん、怜くん、江ちゃん。みんなで過ごした時間が、笑った時間が本当に特別で、きらきらしててまばゆくて、だいすき。

   でも、置いていかなくちゃいけない。

   前を向かなきゃいけない。立ち止まっていたらいけない。進んでいかなくちゃいけない。それがハルちゃんのくれたものだから。もう過ぎてしまったことだから。

   ねえ、ハルちゃん。私が応援してくれなくなったら困るって言ってくれたの嘘だった?これからもずっと頼むって言ってたの、ずっとってもう終わっちゃった?ハルちゃんが私が妥協して四年間過ごしてきたわけじゃないのを知ってるって、誇りに応えたいって言ってくれたの、ちょっと身体が震えちゃうくらい、すごくすごく嬉しかったんだよ。
   ハルちゃんが私は強いよって、一番だめなときの私を信じてくれたから、手を差し伸べてくれたから、わたし、もう自分の足でどこにでも行けるようになったんだよ。

   なのに、ごめんね。
   ハルちゃんがあの日にくれた言葉に、
   あの日くれた優しさに、
   見合えなくて。
   気づけなくて。
   何も返せなくて。
   何にもなれなくて。
   どこにもいけなくて。
   強くなくて、

   ハルちゃん、ごめんね。


( ねえ、−−ちゃん )

どうして返事、くれないの。



   私は今も、痛くて、怖いままだよ。



「茅」


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