himawari episode.10


   −−二月十四日。

   コマチさんの計らいでバイトはお休み。陸上クラブは元々練習日ではないので完全にオフ。バイトと陸上クラブの練習、勉強の合間にコツコツと練習を重ねたバレンタインデー。本来なら彼氏と過ごすというのが一般的な女子大生なのかもしれないけれども。

「うおお……!すげえ!」

   勉強会開催中のまろんにて。主婦の方がお夕飯の支度をしはじめる時間帯で、今現在私たちの貸し切りの状態になっていた。向かい側に座っている椎名くんが目を輝かせながら驚嘆の声を漏らす。何事かと顔を上げるとルーズリーフと向き合っていたきらきらの瞳が勢いよくこちらを見た。

「瀬戸の教え方めっちゃ分かりやすいな!ノートも超見やすいしよ!」
「おーおー、もっと褒めたまえ椎名くん!」
「でも瀬戸が勉強得意になってんのも意外だよな!」
「どっかの誰かさんと誰かさんにも同じこと言われたんですけど……?」

   何故上げて落とすのか。隣に座っている例のどっかの誰かさんその一(郁ちゃん)とその斜め向かい側、テーブル横に椅子をつけて座っている誰かさんその二(遠野くん)に目をやる。
   距離的に話の内容が聞こえていただろう遠野くんが顔を上げて無言でにこりと微笑んだ。もちろん郁ちゃんも聞こえていたとは思うけど、顔をちょっと上げただけで特に反応はなかった。うん、もういいや。口を開かれても褒められはしなさそうだと諦めて椎名くんのほうへ向き直った。

「そういえば椎名くん、なんで私だったの?」
「ん?」
「必修科目の勉強なら私のこと呼ばなくても良かったんじゃないのかなって」
「ああ、それか。真琴が言ってたんだよ。瀬戸は勉強めちゃくちゃ頑張ってるし、教えるのも超上手いってな!特に理系はすげえって!」

   不意に会話に現れた登場人物に少し手元が強張った。真琴くんが知らないところでそんなふうに褒めてくれていたのが嬉しい反面で、またちくりと胸が痛む。
   懐かしいなあ。はじめはハルちゃんや真琴くんに教えてもらう側だった私がだんだん教える側になって。次第に渚くんや江ちゃん、怜くんも苦手な分野では質問をして頼ってくれたりもするようになって。ほんの一年前のことなのに、ひどく懐かしいように思える。穏やかでぬくくて、とても優しい居場所だった。

「…………瀬戸?」
「え?」
「悪い。迷惑だったか?」
「あ、ううん全然!私でよければいつでも!」
「へへ、サンキュー!……っつーわけで瀬戸先生、次はこれ教えてくんね?」
「ふっふっふっ、なんでも来いだよ。お任せなさい!」

   これはねえ、と見せられた問題をほどいていく。教え方が上手だと言っても、ただ解き方を教えるだけでは身にならないという一般的なもの。
   ひとつひとつ丁寧に導いていけば椎名くんはうんうんと頷きながら答えまでの道を進む。元来真面目な彼のことだ。どんなに苦手だと言ってもこうして教えればしっかり正解へ辿り着いてくれる。提示された問題はそんなに難しいものではなく、あっさりと答えを導き出した椎名くんはまたもや目をきらきらさせて顔を上げた。

「ほー……!すげー、瀬戸マジすげー……」
「茅は岩鳶高校でもいつも五本の指に入ってたもんねえ」
「クラス?学年?」
「学年だって。高校のとき真琴から聞いちゃった」
「マジかよ……中学んときは俺と似たようなもんだったのになー……」
「ねー。オーストラリアとオーストリアは間違えるのにねー」

   貴澄くんによって私のプライバシーがまた晒されている。しかもまた上げて落とされている。オーストラリアとオーストリア、地名と場所の違いはちゃんと分かってるもん。凛の留学先が私の中でなんか、こう、ふわっとしてただけだよ。そう反論しようかと考えて、なんだか凛が可哀想になったのでやめておいた。

「中学のときは部活ばっかりで知らなかったけど、今は楽しいから」
「勉強がかあ?」
「うん!分からないが分かるに変わって、自分のレベルが上がってくの、楽しいよ。椎名くんの水泳と一緒だよ」

   練習を重ねて一秒先の世界が見えるようになるの、めちゃくちゃ楽しいでしょ。勉強に向き合うようになってから思っていたこと素直に口にして、そう付け加える。一瞬ぽかんとした顔をした椎名くんはだんだんと納得した表情になりながら「なるほどな……」と小さくこぼした。

「っし!俺もやるか!………って、なんだそれ?」

   気合いを入れ直した椎名くんの手が再び止まる。それ、と問いかけられて視線を向けられた先へと目を向けると、持っていた教科書から一枚の紙がはみ出していた。再びちくりと刺された胸の痛みは知らんぷりをして教科書を開く。その紙の上部には『大吉』と一際大きい字で記されていた。

「大吉のおみくじ?栞代わり?」
「栞っていうか、お守りなんだ。大学受験の前にハルちゃんがくれたんだよ」
「ハルが?」

   話に入ってきた遠野くんの質問に答えると郁ちゃんも手を止めて反応を見せる。四人の目がこちらを向いていた。これをもらった日のことは、今もよく覚えている。

「去年渚くんと怜くんとハルちゃんが真琴くんの受験のために手作りのお守りあげててね、羨ましがってたらハルちゃんが『手作りじゃないけど全国に行く前に引いたおみくじだからご利益あるだろ』って言って、渡してくれたんだよね」
「おお、ハルってば粋なことするね〜」

   貴澄くんがふわふわと笑う。粋なこと。本当にハルちゃんはこうゆうところがすごいと思う。真琴くんからお守りもらった話を翌日に聞いて、特に深い意味もなく「わあ!いいなあ!真琴くんってば愛されてる〜!」なんて言ってほっこりしていた。
   その翌日、帰り道。用があって家に帰らなくちゃいけなかったので、図書館に真琴くんを残してハルちゃんと二人で帰った。ハルちゃんちの階段下でいつもならばいばいをするところなのに「ちょっと来い」って玄関まで招かれた。突然のことにぽかんとしていたら部屋からこのおみくじを取って戻ってきたハルちゃんがさっきのセリフを放った。さらにぽかんとなる私。数秒の間を置いて「いらないなら返せ」って仏頂面で言われて、慌てて「いる!いります!!」と言ったのを覚えている。声がでかいと注意された。その日からお守りとして教科書やら参考書やら、勉強のときに目のつくところに挟むようになった。
   おかげで受験は無事に合格。合格発表の日に報告の電話を入れたときだって、普段携帯を携帯しないくせにワンコールで出たからすごく驚いた。しかもよかったなじゃなくて「頑張ったな」って言うから、ちょっと泣きそうになった。これで三人、また一緒にいられるんだって、すごくすごく安心して、嬉しかった。

「………おーい、瀬戸?」
「へ?」
「大丈夫かー?さっきからぼんやりしてっけど」
「あ、うん!大丈夫!なんかいろいろ、懐かしんでただけだから!」

   椎名くんに声をかけられて、ずっと目を向けたままだったおみくじを教科書に挟み直す。せっかくの勉強会なんだから集中しなきゃいけないのに、今日は集中力がぶちぶち切れる。頑張っている人に追いつくために自分も同じように、負けないように、ほかの人の何倍も頑張らなくちゃいけないんだから。もう誰にも、置いてかれないように。

「…………一旦休憩にしない?」

   隣からの声に再び意識が現実へと引き戻される。「お、そーだな。結構やったし、そうすっか。なんか飲むよな?」と椎名くんが頷きながら早々に立ち上がる。各々飲むものを伝える中でカフェラテをお願いしてから、ぱちぱちと瞬きをしながら隣を見た。郁ちゃんが休憩を言い出したのがちょっとびっくりだ。疲れちゃったのかな。
   綺麗な横顔が「ん?」と言いながらこちらを向く。視線に気づかれたらしい。疲れちゃった?と聞いてみると「………ちょっとね」と濁したような返答をされた。頭の中にはてなが浮かんだけど、そのタイミングで椎名くんが隣のテーブルに飲みものを置いてくれたので話はそこで終わってしまった。

「旭。ちょっと買い出しに行きたくて、休憩がてら月紫のこと頼まれてくれない?今ちょうど寝てるし、一時間くらいで済ませるから」
「おう。いいぜ」

   そんな会話を聞きながら勉強に使っていたテーブルを離れて隣へ移動した。みんな立ったままグラスを手にし、扉へ向かう茜さんにみんなで「いただきます」を伝えて見送る。閉まった扉からカランとドアベルが鳴ったところであっ!と思い出した。

「わすれてた!今日お菓子持ってきたんだった!」
「もしかしてチョコレート?」
「わ、正解!貴澄くんよく分かったね」
「だって今日バレンタインだもん。茅なら絶対持ってきてくれるって思ってたんだよね」
「なんでお前が期待すんだよ」

   呆れた顔をする椎名くんにふふっと笑ってから鞄を開ける。茜さんに事前にお話して持ち込みをOKしてもらっていたことをすっかり忘れていた。鞄の中にはラッピングされた袋がふたつと高級そうなデザインの箱がばっちり入っている。
   迷わず取り出したのは後者のほう。包装紙を開いて箱の蓋を開けてからテーブルの真ん中に広げる。中にはひとつひとつ種類の違うチョコレートが数個並んでいて、貴澄くんと椎名くんが「おお……!」といいリアクションをしてくれた。

「残念ながら手作りとかではないんだけど、ちょっといいやつを買ってきてみました」
「超美味そう!サンキューな瀬戸!」
「茅ありがとう。僕ももらうね〜」
「……ありがと。いただきます」
「ありがとう瀬戸さん。けど郁弥も僕たちと同じでいいの?」
「郁ちゃんのはちゃんと作ったやつ用意してるから!………あっ!」

   みんなが口へチョコレートを運んでくれる中、遠野くんから投げられた質問に答えた口を慌てて塞ぐも既に遅し。視線は私ではなく郁ちゃんのほうへ降り注ぐ。三人の視線は穏やかであたたかいものだけど、口元は弧を描いている。うわ、と言いたげな顔で受け止める郁ちゃんを見て、あ、そうだ!と少し大袈裟に言って話題を切り替えた。

「明日ってスイミングクラブで練習あるかな?」
「僕たちは部活だけど、旭は行くんだよね」
「おう。それがどうかしたのか?」
「ええとね、真琴くんの分、別で用意したから渡してもらえないかなって。今日来ないって聞いてたから」

   さっき確認した鞄の中からラッピングした袋をひとつ取り出して隣にいる椎名くんへ見せる。おそらく椎名くんたちから誘われてはいただろうけど、一応私からも連絡して聞いてみたところ、真琴くんは今日大学の友人と約束があって行けないと言っていたから、こうして個人用で包んできたのだ。

「直接渡さなくていいのか?年明けてから会ってないって真琴が言ってたぜ」
「………へへ、しかたないよ。お互い忙しいし、最近は予定もあんまり合わないし」
「ま、そうだよな。瀬戸がいいならいいけどよ」

   椎名くんはそう言って差し出していた袋を受け取ってくれた。自分で頼んでおいて、空っぽになった手のひらは軽くなるどころか妙な虚しさみたいなものが残った。せっかくのバレンタイン。予定がなかなか合わなくて集まれるのが今日しかないってことで今日もこの日になった。それでもみんなと一緒に過ごせて郁ちゃんともいられるのに、こんな気持ちでいていいのかな。
   また気持ちが下へと向いたとき、勉強していたテーブルに置かれていた郁ちゃんのスマホが揺れる。それを確認した郁ちゃんが「ごめん。兄貴から電話」と少し距離を置いてカウンターのほうで電話を取った。

「茅、ハルには会って渡せそう?」

   ひょこりと顔を覗かせてきた貴澄くんからの不意の話題にざわ、と胸の中が騒ぐ。コーヒーカップを握る手に無意識に力が加わった。

「どうしてハルちゃん?」
「毎年ハルと真琴にはあげてたでしょ?最近誰とも連絡取り合えてないみたいだからさ。茅なら何か知ってるかなあって」
「あー……ハルちゃんのことは、私も全然だよ。メッセージも返ってこなくて」
「んー、そっかあ」
「うん。だから今年は、ハルちゃんに渡すの無理みたい」

   ハルちゃんのことで"無理"なんて言ったの、もしかしたらはじめてかもしれない。落ち着いてくれない胸騒ぎを鎮めるべくカフェラテに口をつけると、遠野くんがきょとんとした視線をこちらに向けてきていた。

「なあに?遠野くん」
「いや、瀬戸さんって七瀬くんのことそんなふうに呼んでたっけと思って」
「、え」
「そういや久々に聞いたな。再会してからずっと名前で呼んでたもんな」

   触れられると思わなかった話題に言葉を失った。そういえば頭の中でもずっとハルちゃんって呼んでたから、すっかりハルちゃん呼びに戻ってしまっていたけど、そんなこと、言えるわけがない。なにか言わなきゃ、と言葉を探したけど何も思いつかなくて、誤魔化すようにへろっと笑う。ああ、もう。やっぱりだ、と思った。みんなといるのは楽しい。仲間に呼んでもらえるのはすごく嬉しい。なのに苦しくなる。誰にも言えないあの日が、ハルちゃんの影が、どうしようもなくちらつくから。隠したい気持ちが何度も何度も顔を出すから。
   カップを置いて、カウンターにいる郁ちゃんへ逃げるように視線を投げる。まだまだ夏也先輩との電話は終わらない様子だ。代わりに貴澄くんが「中学のときはハルちゃん呼びだったんだよね〜」と返事をしてくれて、遠野くんがそれに「へえ。そうだったんだ」と聞いた割には興味の薄そうな反応を返している。
   すると同じように郁ちゃんの背中を見ていたらしい椎名くんが「電話………」と呟いて、それからぱっと表情を明るくさせた。

「おっし、じゃあ俺が今からハルに電話かけてやるよ!」
「えっ?」
「もし出たら瀬戸も直接渡せるだろ?」
「え、いや、その、」

   突然の提案についていけない私を置いてけぼりにして椎名くんはスマホをポケットから出して操作しはじめる。それが何をしようとしているのか、会話の流れで答えはひとつしかない。

「ま、まって」
「んーちょっと待てよー」
「ちがくて、そうじゃなくて」

   椎名くんの指がスマホを滑るたびに呼吸が浅くなっていくような錯覚を起こす。角度的に一文字一文字鮮明にとまではいかないけど、連絡先の中からハルちゃんを探していることが分かる。ど、ど、と焦りを含んだ心音が耳に大きく響く。ちがう。そうじゃない。そうゆうことを、してほしいんじゃない。してほしくない。

「お。あった」
「っ椎名くん!!!」

   おねがい、しないで。
   なにもしないで。


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