郁ちゃんと晩ごはんを食べに行った帰り道、次の電車まで少し時間があるので郁ちゃんがお手洗いへと向かう。改札付近で一人待っていると人混みの中に馴染みのある顔を見つけて、目が合うなりあっ!と口から声がこぼれた。

「宗介!」

   迷わず名前を呼んでぱっと手を上げる。目が合った時点で気がついてくれていたであろう宗介はというと、特に嫌な顔もせずにこちらに歩み寄ってきてくれた。

「こっ、こここ、こんばんは!」
「どもりすぎだろ」
「へへ……なんか、つい!それにしても奇遇だね!」
「そうだな。全日本選抜以来か」
「うん!最近は調子どう?」
「ああ、悪くねえ。今日もこの近くの新しいスイミングクラブを紹介してもらってきたところだ」
「そっかあ!順調そうでよかった!」

   思いがけない良い報告にほっぺたがゆるりと緩んだ。その表情はどことなく明るさを纏っていて、ますます緩んでしまう。宗介はしばらく東京にいるんだろうか?大学は確か地元のはずだけど、復帰するまでは休学するのかな?

「茅はこんなところで何してたんだ?」

   頭の中で質問をいくつか浮かべていると、先に質問をしてきたのは宗介のほうで、ぴしりと身体が固くなる。

「あっ、と、ええと、人を待ってて」
「………」
「?」

   郁ちゃんを待っていると答えるのがなんだか恥ずかしい。その恥ずかしいはもちろん、一緒にいるのを見られたくないではなく、照れてしまうという意味である。私の返答に対して、宗介は何かを考えるように一度目を逸らしてから、再びこちらをじっと見下ろしてきた。変なことを言った心当たりはないのだけれど。沈黙に疑問符を浮かべて首を傾げていると。

「もしかして桐嶋郁弥と一緒か?」
「え!な、なんで分かるの!」
「さっき一瞬見た気がした。やっぱそうだったのか」
「あ、ええと、じゃあ、郁ちゃんがお手洗い行くときにすれ違ったんだね。二人でお夕飯を食べてきたところで、ありまして」

   言葉に照れくささが滲んでしまう。付き合う前は平気で隣を歩いていたし周りに何を言われても気にならなかったのに、恋人という肩書きが増えただけでどうしてこんな、くすぐったい気持ちになるんだろう。付き合ってから二人でご飯食べにいったり、家まで送ってもらったりしてもう一ヶ月くらい経つのに、まだまだ慣れない。さすがにもう逃げるようなことはしていないけども!
   無意識に落としていた視線を待ち上げて、宗介に向き直った。見上げた表情に、ぴんとくる。これは、たぶん、聞かれるやつだ。

「付き合ってんのか」
「んんんんん」

   やっぱりだーー!という言葉を飲み込んでくぐもった声を発する。遙のことで今まで散々言われてきているせいか、勝手に予想がついてしまった。うう、と言葉を濁して顔に熱を集めていると、見上げていた口角がゆったりと上がる。

「分かりやすいな」
「じ、自覚は、すごぶる、しているであります、ハイ」
「なんだその言い方」

   はは、と笑う宗介の顔が本当に明るいことに、恥ずかしさに埋め尽くされそうな頭で気がついた。きっとすごく調子がいいんだろうなぁ。いつか病院で会ったときとは見違えている。釣られるようにして笑顔を浮かべれば、宗介は改札の方へと足を踏み出した。

「邪魔にならねえうちに帰る。じゃあまたな」
「う、うん!帰り気をつけてね!」
「おう。茅もな」

   ひらりと軽く手を胸元で振ってくれた宗介は再び人混みの中へと混ざって、改札の向こう側へと消えていった。こっちにいるなら宗介も合同学園祭来てくれるかなぁ。凛も代表選手の練習があるし、東京にいるはずだ。きっと貴澄くんか真琴くんあたりが誘ってくれるだろう。凛は去年の岩鳶祭には来てくれなかったし、楽しみだなぁ。
   期待に胸を膨らませていると、さっき宗介を見つけたように、人混みの中から待ち人がこちらに来るのが目に入った。

「お待たせ。ごめん、お手洗い混んでて」
「おかえり郁ちゃん。全然大丈夫だよ」
「……さっき誰かと話してた?」

   宗介と別れてからはまだ一分も経っていない。きっと郁ちゃんが戻ってくるときにチラッと見えたんだろうとは想像がついて頷いた。

「宗介と偶然会ってね、少しお話してたんだよ」
「…………そう」
「うん……?」

   あれ。今少し間があったような。それになんだかむすっとしているような気がする。首を傾げて様子を伺うも「帰ろう」と言ってすみやかに歩き出されてしまい、ひとまず後ろをついていく。
電車に乗ってからもその様子は変わらずで、それでね、そのとき凛と遙が、それで宗介がね、真琴くんがね、と共通の友達の話題を中心にいろいろ話をしてみるも、隣に座る郁ちゃんの反応はイマイチだった。
   付き合う前のあのときと、ちょっと似ているかもしれない。だけど郁ちゃんは私が郁ちゃんを好きだと知っているし、宗介と話しているところを見たわけじゃないし、やきもちを妬く理由は見当たらない。



「……どうかした?」

   電車を降りて私の家の最寄駅から帰路につく。駅を出てから一言も発することなく郁ちゃんを観察していたからか、不審に思ったらしい郁ちゃんに声をかけられた。

「郁ちゃんがご機嫌斜めの理由を推理しているところです!」
「………別にご機嫌斜めじゃないけど」
「そして何も浮かびません」
「だからご機嫌斜めじゃないって」

   そう言われるだろうとも思っていたし、そう言われたところでそうじゃないとも思っている。否定されても観察する目をやめない私を見かねてか、じとりと呆れた視線を寄越してきた郁ちゃんにはあ、と短く溜め息を吐かれた。続けて口が薄く開いたのを、見逃さないし聞き逃さない。

「…………名前、」
「え?なまえ?」

   復唱すると拗ねた顔がふいっと私のいないほうを向いてしまった。なまえ、なまえ、と頭の中で反復して考えてみる。まずは身近な人から。郁ちゃん、遙。それから凛、宗介、真琴くん…………あっ!!

「郁弥?」
「っ、」

   ひらめいたことを口にすれば、ばっと郁ちゃんが振り向いた。当たりだったらしい。正解を当てたことに感心しながらにやけていると、またすぐに拗ねたような顔つきに戻る。

「……やっぱりいい」
「ふふ!かわいいなあ、郁弥は」
「ほんとやめて」

   そしてそのむっとした顔に睨まれる。もちろんちっとも怖くはない。照れているんだろうなぁ。時折街灯に照らされる郁ちゃんのほっぺたがほんのり赤い。ふふふー、と漏れる笑い声を耐えることなく外へ吐き出す。笑えば笑うほど郁ちゃんの目は鋭くなっていく。

「子どもっぽいって思ってるでしょ」
「思ってないよ?」
「……馬鹿にしてるでしょ」
「まさか!可愛がってるよ!」
「どこが?」
「でも私もちょっと照れちゃうから、大事なときにとっておくね」

   ふへ、と最後に力の抜けた笑い声がこぼれ落ちる。郁ちゃんは「僕が照れてるみたいに言わないでよ」という言葉を最後に拗ねた顔をやめて、今度は不思議そうな表情を浮かべた。

「ってゆうか大事なときってなに?」
「…………てっ、手をつないでほしいときとか」
「それ大事なときなの?」
「大事なときだよ!」

   何を言うか!と訴えるように反発してみせれば、ようやく郁ちゃんがくすりと笑った。むくれている顔も好きだけど、やっぱり笑っているほうが嬉しい。きゅん、と胸が切なくなればその大事なときを自然と実行したくなってしまった。
   だってもう、こんなに顔が熱いんだから、大事なときじゃなかったらなんだって言うんだ。

「い、郁弥っ、」

   照れると宣言してから呼ぶのは、なおさら羞恥心を芽生えさせる。立ち止まって手を伸ばしながら名前を呼ぶと、一瞬郁ちゃんの大きな瞳がまあるく開かれる。それからなんともいえない顔をした郁ちゃんからすっと手が伸びてきた。

「……………はい」

   手を取ると空っぽの手のひらが大きな手に埋め尽くされる。最初は普通の繋ぎ方だったけれど、数歩歩いてから、ゆっくり指同士が絡む。初めての所謂"恋人つなぎ"というやつに、びくりと指先と心臓が動いた。誤魔化すようにへらりと笑う。

「へへ、照れちゃうね」
「………別に照れてないし」
「ものすごい嘘つくなあ」
「嘘じゃないし」

   口でそんなことを言っていても顔には僕も照れるって書いてある。だって赤いもん。かわいいなぁ。

「郁弥、すき」

   本当にかわいい。かわいくて、すごいすき。胸の中いっぱいに溢れた感情を一番シンプルな二文字で小さな声で伝えると、またばっとこちらを見下ろした郁ちゃんがますます顔を赤くさせて、今度はばっと正面に向き直って空いている手で顔の下半分を覆った。忙しい子だ。呑気に考えているとちらりとこちらを見た大きな瞳に睨まれる。

「急にそうゆうこと言うのほんとやめて」

   握られた手にぎゅうっと力が込められる。我慢できずにふはっと笑えば、またちっとも怖くない顔ですごまれた。


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