himawari episode.08


   バイトを終えて店長であるコマチさんへ挨拶するためにキッチンを覗く。閉店作業も終えた静かなキッチンで一人、コマチさんはスマホを片手に難しい顔をしていた。

「コマチさん?」
「あら、茅ちゃん。お疲れ様」
「お疲れ様です。どうかしたんですか?」
「うーん……実はねえ、ニカくんが部活で怪我しちゃったみたいで、しばらく出てこられそうにないのよ」
「え!そうなんですか!」
「ええ。大きな怪我じゃないから二週間くらいで戻ってこられるそうなんだけど、卒業シーズンでヨリちゃんたちも辞めたばかりだし、どうしようかと思って」

   明後日、ニカくんシフト入ってたのよね。困ったように眉を下げて頬に手のひらを添えるコマチさん。明後日の予定を思い浮かべて天秤にかける。でも悩んだのはほんの一瞬で、すぐにコマチさんと名前を呼んだ。

「私でよければ出勤させてもらえませんか?」
「え?そんな、悪いわ。茅ちゃんダブルワークでしょう?大学だってあるのに」
「ニカくんが戻ってくるまでの間に代わるくらい大丈夫ですよ!体力には自信がありますから!」

   えっへん!と自慢げに拳を胸に置いて自信を露わにする。コマチさんは水泳の大会があるたびに快くシフトを調整してくれるし、コーチアシスタントの件も引き止めるどころかすごく背中を押してくれた。話に出てきた高校生のニカくんも「応援頑張ってきてくださいね!」とにこやかに送り出してくれる、とてもいい子なのだ。私ばかりお世話になってはいられない。今こそ恩を恩でお返しするときだろう。

「じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」
「はい!なんなりとお任せください!」
「ふふ、頼もしいわ。ありがとう茅ちゃん」

   穏やかな口調でコマチさんがふわりと笑う。コマチさんはまだまだお姉さんと呼べる若さなのに東京で小さな和食店を経営をしていて、数年間は実家の高級な旅館で修行を積んでいたらしい。そんな苦労なんて微塵も感じさせないくらい、朗らかで仕草もお料理も綺麗で、品のある人だ。こっそりと、とっても、尊敬している。



「……というわけで、明後日バイト入れちゃったんだけど、いいかな……?」

   件の予定について、駅へと向かう帰り道に約束の人物へ連絡を入れる。絶対に怒らないという確信めいたものはあるのに、時間が経つにつれてだんだん申し訳ない気持ちが大きくなってきた。当日ではないものの、ドタキャンするのなんて初めてで、あんまり良くないどきどきで胸を詰まらせていると。

「いいよ。いつも僕の予定合わせてもらってるし」
「よかったあ………」
「それより茅は平気なの?もうすぐテストもあるのに」
「私は全然!身体丈夫だもん!」
「インフルには負けてたのに?」
「そ、それは、なんか、種類が違うじゃん………」

   痛いところを突かれて声が尻すぼみになっていく。スマホの向こうからはくすくすと小さく笑う声が聞こえてきて、ますます安心する。よかった、郁ちゃん、全然怒ってなくて。

「じゃあご飯はまた今度」
「ごめんね郁ちゃん。ありがとう」
「…………」
「………?」
「茅」
「うん?なあに?」
「………ううん。無理しないようにね」

   無理、という単語にスマホを持っている指先がぴくりと反応する。一瞬空けられた間はなんでか分からないけれど、そのあとの優しい声色から心配してくれるんだって伝わってきた。勝手に緩むほっぺたに逆らうことなくニヤニヤしたところで駅に着いてしまった。電話を切らなきゃ、という名残惜しさが少しだけ胸を切なくさせる。

「へへ、大丈夫だよ。ありがとう郁ちゃん」
「あと帰り道、もう暗いんだから気をつけてよ。なにかあったらすぐ連絡して」
「もう駅着いたから大丈夫だよ?」
「電車降りてからまた歩くでしょ」
「そりゃあそうだけど、今日はいつもより心配性だなあ」
「本当に」
「はあーい。じゃあまた学校でね!おやすみなさい!」


↑↓


「………うん。おやすみ」

   再会してからも付き合ってからもしばらく経って、学校でもほとんど毎日顔を合わせているのに電話を終えるのが名残惜しく感じるあたり、結構重症かもしれない。
   ……絶対口には出さないけど、と思いながら静かになったスマホを耳から離す。ちょうどこっちもスイミングクラブで練習を終えた帰り道で、近くには日和と真琴、旭だっている。長々と電話が出来る状態じゃないのは同じなのに、多分全部は同じじゃないと感じていた。

「茅から?」

   茅から電話がかかってくる前まで並んで会話をしていた真琴が数歩先から振り返って尋ねてくる。さらに前を歩いている日和と旭は何やら話し込んでいてこっちの様子は届いていないらしい。少しペースを落とした真琴を自然と足が早くなり、僕たちは再び並んで歩きはじめた。

「うん。向こうの声聞こえた?」
「それは聞こえなかったけど、郁弥がちょっと心配そうにしてたから」
「なっ………し、してないし」
「ふふ、そう?茅、なにか急ぎの用事だった?」
「バイトが入ったから、明後日会えなくなったって」
「…………そうなんだ…」

   はじまったばかりの会話が止む。何気ない会話のはずなのに、振り返ってみてもおかしなところはないのに、真琴は自分が断られでもしたのかというくらい声にも表情にも陰を落としている。

「真琴?」
「………なんか、さ。茅、無理してるんじゃないかと思って」
「…………」
「………あっ、ごめん!ハルとあんまり連絡取れないからって考えすぎだよね。茅には郁弥がついてるのに」

   言葉とは裏腹に浮かべられた笑顔の眉は下がったまま。心配してる。強がりみたいなその言葉よりもずっと表情がそう語っていた。
   そこでふと、電話を終える名残惜しさの中に潜んでいた違和感が顔を出す。数週間前から密かに芽生えていたその違和感は真琴が口にしたものとほとんど変わらないものだった。

「僕も正直、そう思う」
「………そうなの?」
「人前では元気にふるまってるように見えるけど、人前じゃなくなると思いつめた顔してるときがあるから。無理に忙しくしてるように見えなくないかもって、年明けたくらいから、ちょっと思ってた」
「………なんか、それって昔と、」
「え?」

「おーい郁弥!真琴!なにしてんだー?」

   旭に呼ばれて二人して顔を向ける。話の途中、いつの間にか足を止めていたみたいで旭と日和は一足先に駅へ到着していた。話を一時中断して駅へ着くなり旭が「なに話してたんだ?」と首を傾げながら聞いてくる。隣の日和も口にはしないものの少し不思議そうにこっちを見ていた。

「茅から郁弥に電話があったから、元気にしてるかなって話してたところ」
「おー、そういえば俺もしばらく会ってねえな。瀬戸元気してるか?元気ねえとこ想像つかねえけどさ!」

   返事をする間がなかった。旭のこうゆうところ、ほんと変わってない。改札へと歩き始めた旭の背中に続きながら呆れた視線を送っていたら改札をくぐったところで意地の悪い表情を浮かべた日和がくすりと笑った。

「椎名くんの想像通りなんじゃない?相変わらず賑やかだよ、瀬戸さんは」
「………ん?それ褒めてねえだろ?」
「褒めてないからね」
「遠野のほうがよっぽど相変わらずだよな」
「どのへんが?」
「そうゆうとこだよ!」

   日和と旭がよく見る光景を繰り広げていることに強張っていた真琴の表情が和らいだのが視界の端に映る。それにつられて少し口元を緩めたところで「ああ、でも」と旭が何かを思い出したように口を開いた。

「瀬戸、中三のときはあんま元気なかったって言ってたよな。ハルに励ましてもらったって」

   なんのことを指しているのかすぐに思い当たった。それは真琴も同じみたいで少しはっとした顔を浮かべた。なんだか今日は、真琴の表情の変化がよく分かる。「怪我したとき?」日和が投げた質問に「多分なー」と旭が軽く頷く。

「なんか珍しく感じるよね」
「なにがだよ?」
「ほら、七瀬くんって水泳での繋がり以外の人にあまり深く関わってるイメージがないからさ」
「あー……言われてみりゃそうかもな。大学でも水泳部以外の女子と話してんのあんま見ねえし。そもそも水泳部の女子ともあんま喋んねえし」

   旭が顎に手を当てて考えはじめた。かと思えばすぐに諦めたようで真琴のほうを見る。確かにそこに至るまで何かしらの経緯はあったのかもしれないけど聞いたことはない。茅がハルに対して、その、今僕に抱いてくれてるような感情を持ったのはそれからだって言ってたし。改めて言われると不思議だと思っていたら日和まで振り返って真琴を見る。つい一緒に目をやれば真琴は少し狼狽えた様子で「ええと……」と声を漏らした。

「んー……話すとちょっと長くなっちゃうんだけど」
「お。やっぱなんかあんのか?」
「なんかってほど大袈裟なことじゃないんだけどね。中二の春の、終わり頃からだったかな。茅がハルのこと気にかけてくれるようになったんだ」
「そういや瀬戸のやつ、ハルが水泳部辞めちまったときもちょいちょい声かけてたもんな」
「うん。それで、あるとき茅がハルにね、」

『−−まもなく二番線に電車が到着します』

   ホームから聞こえてくるアナウンスが真琴の言葉を遮った。そこに旭がさらに「あ!!」と大きい声を被せる。スイミングクラブへの道も随分通い慣れたから旭の声が何を意味しているのかなんて聞かなくてももう分かる。

「やべえ俺乗るやつだ!悪いけど行くわ!また続き聞かせてくれよ!」

   せかせかと僕たちの輪から抜け出してホームへと駆け出す旭の背中にひらひらと手を振る。真琴が隣で「お疲れ様」と言っていたけど多分届いてはないだろう。
   僕たちの電車が来るまではまた五分くらい時間がある。「ちょっと飲み物買ってくるよ」と日和が自動販売機のほうへ行き、僕と真琴が二人で残される。さっきの話の続き、とも思ったけど僕たち四人が揃う機会なんていつでもあるだろうし。気になるとか、全然、そんなに思ってないし。
   すると隣から突然ふふっと笑う声が聞こえてきた。日和はまだ戻っていないから、もちろん隣には真琴しかいない。

「どうしたの?」
「ちょっと、思い出しちゃって」
「?」

   思い出し笑いらしい。流れ的にはおそらくさっきの話と関係があるんだろうけど、話は途中のまま。頭の中で疑問符を浮かべる。さっきまで時折暗い表情を浮かべていた真琴はそんな面影をひとつも残さないくらい、出会ったときから変わらない穏やかな笑顔を浮かべた。

「茅の原動力って、昔から本当にいつも郁弥なんだなって思って」

   気を遣ってくれてるだとか、僕のことを心配してるだとか、そういったことは読み取れない。今日はなんだか真琴の表情がよく分かる。さっきと同じことを思った。そのせいで、真琴がすごく嬉しそうだっていうのが伝わってきてしまったから。
   僕が知らない茅の時間を一緒に過ごしてきたのはハルだけじゃない。だから真琴がそう言うのならそうなんだと思うけど、素直に喜ぶのが照れくさくて、ちょっと拗ねたような声でなにそれ、と返すことしか出来なかった。


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