「おはよう郁ちゃん!」
「…………おはよ」

   教室へ着くと三日前にめでたく郁ちゃん呼びが決定した(正確には勝手に決めた)桐嶋くんが今日も隣の席に座っていた。絶対に聞こえるように普通のおしゃべりよりも大きめの声で挨拶をすると、ジトリとしたなんとも言えない目を向けられる。

「なあに?」
「………その呼び方、いつになったらやめるの」
「え?やめないよ?」
「……………」
「うーん、郁ちゃんが本気でものすごく嫌ならさすがに考えるけど」
「そこまでは………いや、良いとも思ってないけど、もっと普通に呼べば」

   普通に、と言われて一瞬考える。おそらく郁ちゃんは桐嶋くんとか郁弥くんという呼び方を求めているんだろう。でも私としてはやっぱり郁ちゃんがいい。ほかにそう呼んでる人はいないみたいだし、仲良くなる第一歩に呼び方は超重要だと思うし。

「……っていうかやめるじゃなくて考えるなのもおかしくない?」
「あはは、言われてみればそうだね」
「……………」
「お、そうだ!いいこと思いついた!」
「………なに?」
「なんで嫌そうな顔するのさ」
「嫌な予感しかしないから」
「そんなことないよ。郁ちゃんも私のこと名前で呼べばいいんだよ!」

   ねっ!と念を押しながら郁ちゃんのほうへ少し上半身を傾けると、圧されるように郁ちゃんが一瞬びくっと肩を震わせた。大きな目がちょっとだけ丸くなったのがなんだか可愛い。でもまたすぐにいつもの警戒するような目に戻ってしまった。

「呼ぶ必要ある?」
「だってせっかく友達になったんだもん。名前で呼ばれたいよ」
「友達って……」
「………ちがうの?」

   呆れたように言われてしょんぼりと肩が落ちる。友達の定義とか難しいことは分からないし考えたこともないけど、もし違うと首を横に振られたらすごく悲しい。じっと大きな目を見つめながら返事を大人しく待つと、その大きな瞳は困ったようにあっちこっちへと動きはじめた。

「ち、ちが、わ………そ、そんなことより、とにかく呼ばないから」
「そんなあ……!」

   忙しなく動いていた瞳はぷいっと顔ごと黒板のほうへ向いてしまった。郁ちゃんが友達だって言ってくれるじゃないかとすっかり膨らんでいた期待がしゅるしゅると萎んで、再び肩がしょんぼりと落ちる。

「なんだっていいでしょ。呼び方なんて」
「もう今日の授業頑張れない……」
「……なにそれ。大袈裟すぎ」
「あっ!でも今日体育あるね!」
「……………」

   ふと目についた時間割のおかげで気持ちがすぐに上を向く。すると隣からはあ、という溜め息が聞こえてきた。まだお喋りするようになって三日しか経ってないけど、もうこの溜め息も聞き慣れてしまった。
   溜め息、吐かせたいわけじゃないんだけどなあ。もっと仲良くなったら、もっと郁ちゃんのことを知れたら、また郁ちゃんの笑顔が見られるかなあ。そう思ってへらっと笑えばまたジトッとした目で見られた。


/


「郁ちゃん、将来の夢ってなにかある?」

   放課後、黒板消しのクリーナーを終えた郁ちゃんと二人きりの教室にて。日誌の時間割に三限目の国語まで書き終えたところで郁ちゃんに声をかけた。

「なに急に。………ああ、作文?」
「そう!難しいよね」
「そうでもないと思うけど」
「……そうなの?」

    今日受けた国語の授業内容は作文の構成作り。テーマは"夢"について。なかなか進まなかったことを思い出しながら郁ちゃんの背中に問いかけると、黒板消しを粉受に戻した郁ちゃんが勢いよく振り返った。その顔はしまった、とでも言いたげな顔をしていて思わずじいっと見つめてしまう。目は口ほどに物を言うというくらいだから、きっと私が次に何を言おうとしてるのか気がついたんだろう。
   きょろきょろと少し目を泳がせているけれど、それでも見つめるのをやめない私に観念したらしい。はあ、とまた溜め息がひとつ聞こえた。

「………世界」
「せかい?」
「水泳で、いつか、世界大会に……出たいなって」

   泳いでいた瞳はまっすぐ床へ向けられていて、まだ夕陽になっていない太陽の光が大きな瞳の中できらきら光って見える。ちょっぴり頼りなさげな言い方とは正反対に、同い年の子が抱いてるとは思えないほどその夢は壮大なものだった。
   ぶわりと窓から風が吹く。夏のはじまりを感じさせる生ぬるい風が私の髪と郁ちゃんの髪を揺らした。綺麗だなっていつも見ている髪の毛がさらさらふわふわと舞い上がる光景に、目を奪われる。

「すごい!すごいね!」

   風が止んだ途端、まるでそれが合図のようにがたんと勢いよく席を立つ。郁ちゃんが驚いた様子で顔を上げたけれど、構うことなくそのまま口を動かした。

「わあ、わー…!私、友達にそんなこと言う子ほかにいたことないよ!すごい!すごいね郁ちゃん!」
「べ、別に、言うだけなら誰にでも出来るし……」
「でも郁ちゃんは言うだけじゃないでしょ?」
「は?」
「だって、ほら、教室の後ろで水泳部入る入らないの話してるとき、真剣にやってるんだって言ってたの聞こえたもん!あと椎名くんも言ってたんだよ。あいつむかつくけど早えんだよなーって!」

   勝手に緩む目と口で思っていることをすらすらと並べる。私も郁ちゃんが泳ぐところ見てみたいなあ。興奮ですっかりあったまった身体を冷ますみたいに、吐息を混ぜてしみじみと呟いた。

「………むかつくは余計」
「え?………あ!わっ、あ、ご、ごめん」
「いいけど」

   目をぱちくりさせながら聞いていた郁ちゃんはなんだか不思議な顔をしていた。口調のせいでむすっとしているようにも見えるし、でもすっきりした顔をしているようにも見える。難しい顔だ。
   ふと頭に赤色がよぎる。水泳の勉強しにオーストリアかオーストラリアに行くって言ってた男の子、今頃どうしてるんだろう。きっと彼もこんなふうに頑張ってるのかな。いつか郁ちゃんとあの彼が世界の舞台で一緒に立ったりする日が来たりするかもしれない。


「あ、日誌」
「いいよ。僕が出すから」
「いいの?」

   書き終えた日誌を私の机から攫った郁ちゃんがこくんと頷く。それを見てふふっと笑いが漏れてしまう。小さい子みたいで可愛いなあ、なんて言ったら怒られちゃうかな。
   そんな私のささやかな心配なんて知らない郁ちゃんは、鞄を肩にかけてさっさと教室をあとにする。その背中を慌てて追いかけて廊下に出てから勝手に隣に並ぶと、何か言いたげな目が一度こちらを見てきたのでへらっと笑っておいた。

「ありがとう郁ちゃん」
「別に、これくらい普通だし」
「郁ちゃんの普通は優しいなあ」
「な、なにそれ。意味分かんない」
「ふふ!部活頑張ってね」
「そっちもこれから部活でしょ」
「うん、頑張るよ!」
「………頑張れとまで言ってないんだけど」

   基本的に口角を上げてはくれないものの、おはよう以外の言葉しか交わしてこなかった数日前に比べると随分会話が増えた。嬉しくて嬉しくて逐一エミちゃんに報告していたら「茅はほら、この子何言っても大丈夫みたいだなーみたいな空気感あるから」と言っていた。
   ……ん?改めて思い返してみると、もしかして大して褒められてない?言われたときはすっごく喜んだけど、おやおや?

「……さっきのことだけど」
「へ?さっき?」
「作文の話。夢って、大人になってからの話じゃなくてもいいんじゃない」

   ぽかんと情けなく口が開く。珍しく、そして突然振られた話題に思考が完全に停止して、呆然と綺麗な横顔を眺める。すると何の反応も示さない私を不安に思ったのか、チラチラとこちらに目をやっていた郁ちゃんは「む、難しいって、言ったの、そっちじゃん」と小さく呟いた。そこで少しだけはっとする。

「じゃあ郁ちゃんともっと仲良しになりたいとか?」
「は!?そ、そんなの授業の作文で書いていいわけないじゃん!」
「やっぱりだめかー」

   怒られちゃった。怒られたのに私の心はぽかぽかほくほくとあったかい。郁ちゃんが慌てて怒るの、挨拶以外で初めてお喋りしたとき以来だ。それに私が何気なく言ったことをちゃんと覚えて考えてくれたんだって、すごく嬉しくなる。
   やっぱり私の目に狂いはなかった。郁ちゃん、とってもいい子だ。それから頑張り屋さんで、優しい子。夕焼けみたいな瞳の色とおんなじ、あったかい子。
   はじめに抱いていたクールで繊細な郁ちゃんのイメージを自分の中で塗り替えてにやけているうちに、昇降口へ辿り着いてしまった。せっかくいつもよりたくさんお喋り出来たのにばいばいをしなきゃいけないのが名残惜しい。でも名残惜しいって気持ちの裏側に、いつもより部活頑張ろうって気持ちもある。

「じゃあまた明日ね、郁ちゃん」
「あ………」
「ん?」
「………ま………また、明日」
「っ、うん!!!」

   ぽかぽかを通り越した心が一気に熱くなる。静かな廊下に響き渡った大きな頷きに対して郁ちゃんは案の定「……ちょっと、ボリューム考えてよ」と嫌そうな表情を浮かべる。だって嬉しくて、と緩む頬を隠すことなく素直に感想を述べると、ずっと下を向いていた郁ちゃんの口元がほんの少しふわっと柔らかくなった。

「……ほんと、よく喋るし騒がしいよね。茅は」

   やれやれと言った様子で両肩を落とす郁ちゃんに一瞬見惚れてからへらりと笑う。郁ちゃん、ちょっとだけ笑ってくれてる。呆れられてるのに、たまらなく嬉しい。と思った次の瞬間に笑顔が真顔に変わった。そこで私も気がついた。あれ?待て待て、今、もしかして。もしかしたら、郁ちゃん、私の名前。

「いっ、今のは!ちが……っ、っ……!!」

   思考が追いつくより先に郁ちゃんの顔がぶわあっと赤く染まる。何故かうるうるしはじめた大きな瞳と言葉になっていない声からとんでもなく慌てているのが伝わってくる。それを盛大に笑うと潤んだ瞳にそれはそれは鋭くぎろりと睨まれた。


///


   夏の匂いを孕んだ風がふわりと通る。顔にかかりそうな髪を顔の横で抑えていると、髪の隙間から待っている人物がこちらに向かって歩いているのが映った。

「茅。お待たせ」

   大学の最寄駅は郁ちゃんの部活後の待ち合わせによく使う場所で、部員のみんなに別れを告げたあとの郁ちゃんを待つことにもすっかり慣れてしまった。

「………どうしたの?」
「ううん。お疲れ様、郁弥くん」
「は?」

   にやにやしながらわざとらしく名前を呼ぶとすぐに訝しげな顔をされた。その反応はなんかひどい気もするけど、こんな反応が返ってくることもばっちり想定していた。

「………え?なに?なんか悪いことした?」
「失礼だなー」
「怪しいのはそっちでしょ」

   怪しいって。それに悪いことって一体何を浮かべているんだろう。くすくす笑うとますます怪しむような目を向けてくる。

「もう普通に呼べばって言わないんだなあって思って」

   大きな目がぱちぱちと瞬きをする。なんのこと?と不思議そうに首を傾げていた郁ちゃんは数秒思案して答えを出したらしく、ああ、と言葉を漏らした。

「どっち?いつの話してるの」
「中学のときだよ」
「今さらすぎ……っていうか、言っても聞かないくせに」
「え〜?そんなことないよ〜?」
「そんなことある声で言われても説得力ない」

   どっち、と言われて私が思い出すほうにまわる。そういえば付き合ったばかりのときも似たような話していた。あのときは郁ちゃん、私が宗介のこと呼び捨てで呼ぶのにやきもち妬いてくれたんだっけ。今では郁ちゃんもすっかり宗介と打ち解けて呼び捨てで呼び合う仲になっている。私は仲良くなるのに結構な時間をかけたのに、ちょっぴり悔しい。私のほうが宗介にやきもちしちゃいそうだ。

「じゃあ、はい」
「うん?」

   突然手を差し出される。握ればいいのかな?と手を乗せようとするとサッと避けられてしまった。うん?なんだ?頭に疑問符がぽこぽこと湧き上がる。

「こうゆうときは名前で呼んでくれるんでしょ?」

   いつもと変わらない声のトーンで悪戯な表情をうっすら浮かべる顔をきょとんと見上げる。数秒置いて何のことだか理解した身体がじわじわ熱くなって強張っていった。そういえば同じ日にそんな話もしていたなあ。と他人事のように思い出す。最近は自然な流れで手を繋ぐことも増えてきたから改めて言われるとちょっぴり恥ずかしい。
   躊躇って手を伸ばしきれずにいたら「ほら、早く」と催促の声が降ってきた。うう、と唸って少し睨むと楽しそうに微笑まれて、慌てて逃げるように俯いた。うううちくしょう、可愛い。ずるい。惚れた弱みがどうしようもなく私の背中を押す。

「……郁弥、手、つないで」

   手の行方を目で追っているとさっき退いた手がまた伸びてきた。重なるなり、すぐに指と指の間に長い指が差し込まれる。泳いできたばかりの郁ちゃんの手がひんやりしてるのか、ほんの少しの羞恥心に耐えた私の身体が火照っているのか分からない。ちらっと見上げたオレンジ色の瞳は満足そうにゆるりと細くなった。

「うん。よく出来ました」
「……郁ちゃん、子ども扱いしないでってよく怒るのに」
「僕のは彼女扱いだから」

   さらりと告げられるその言葉にぽっと頬が熱くなる。私が照れるのも分かってやっているな。意地悪め。空いている手でその頬を隠しながらじっと目で訴えると郁ちゃんは嬉しそうにふふっと笑った。笑顔になるまでの時間、うんと短くなったなあ。そのことに気がついてしまうと何にも言えなくて、代わりにぎゅうっと握る手の力を込めた。

「帰ろっか」

   柔らかい笑顔のまま、繋いだ手を優しく引かれる。その拍子にさらさらの髪がそっと吹いた風になびいたのを見て、綺麗だと思う。ちょろい私はそれだけで意地悪なんて全然気にならなくなって、うん!と明るく返しながら大好きな場所を歩いた。


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